_20120622 がんばって購入したマイホームには小さな庭が気付け程度に付いていた。それでもわたしには充分に満足で、退職してからはそこで盆栽などしたものだ。うちの奥さんはわたしより幾分か歳下だったのだけど、それはもう働き者で、下手したらわたしよりよっぽど働いていたかもしれない。実際、わたしよりお給料も貰っていたような気丈で活発な女性だった。だからなのかはわからないが、わたしより先にお迎えが来てしまい、置いて逝かれたときは、あの輝いた目も 「お向かいさん、円窓なんてあったのね」 同じように視線をやった先には、ずいぶんと洒落た藤枠で彩られた円窓が、確かにこちらに向いていた。磨りガラスで部屋の中は見えず、それがまた趣きを醸し出していた。 「……素敵だな」 「──本当に」 久しぶりに感情の込もった言葉を話したわたしに、娘は嬉しそうに笑ってそう返した。 何が切っ掛けだったのか、そう問われたなら、それはおそらくお向かいさんの円窓だった。ぱりっと張りのある藤が不器用に、しかし緩やかにしなやかに円を描く。対象的な印象を併せ持つそれが、何故だかわたしの心に残り、そして動かした。わたしはまた少しずつ庭で盆栽をするようになり、お向かいさんの円窓を眺めては、それに見合うような庭づくりをするようになった。初春には梅を、春には桜を、そしてサツキを、夏には そうしてまた春が来る頃、ふと思った。お向かいさんには誰が住んでいるのだろう。どんな人がどんな気持ちであの円窓を作ったのだろう。一度湧いた気持ちは膨らむばかりで、居ても立ってもいられなくなったわたしは急いでデパートへ菓子折りを買いに走った。梅の花が綻び始めた頃だった。 「こんにちは」 「すみません、突然に」 「いいえ、わたしも家内も暇にしていますからお気になさらず」 押し掛け同然のわたしを笑顔で迎えてくれたお向かいさんは、わたしと同じほどの年頃だった。差し出した菓子折りはすぐさまお茶請けに出され、柔らかな玉露と共にどら焼きの匂いがふんわりと漂う。こんなに和やかで穏やかな時間を誰かと過ごすのはいつぶりだろうか。そんなことをぼんやりと感じながら啜った玉露は、深く沁み渡るような味わいがした。 「もう越してきてずいぶんと経つのですが、こちらにご挨拶も満足にしていないことに、その、今さらですが気づきまして」 何とも言えない恥ずかしさに尻窄んだ言葉に、お向かいさんはやはり穏やかに笑って「そんなことはお気になさらず」と夫婦揃って言ってくれた。それがまた羞恥を誘ったが、続いた言葉に思わず顔をあげた。 「あなたの奥さまがね、ときどきいらっしゃっていたのですよ」 「うちの……奥さんが、ですか?」 「ふふ、やはりご存知なくて?」 「面目ない」 少し足りない旦那と思われてしまっただろうか。奥さんに申し訳ないような気持ちになってしまった。 「奥さまがね、あなたが盆栽を嗜みながらお庭をつくっていく様がここからよく見えるのだと、嬉しそうに仰っていたんですの」 「奥さんが、ですか?」 「ええ。奥さま、休日のお買い物はいつも午後。そしていつもより少しだけ長かったでしょう」 「あ……」 振り向けば、視界に入る我が家のこじんまりとした庭先。ちらちらと見える渡り廊下に、わたしが飾った盆栽の数々。今はちょうど綻び始めた淡いピンクが、まるで小さな灯りのようにちらちらと景色を彩る。 「ずいぶんと四季折々、彩り豊かなお庭になりましたね」 「本当に」 夫婦揃って口々に褒めてくれる言葉がくすぐったい。そして、リビングに併設された続きの和室には、いつも眺めていた藤枠の円窓。 「奥さま、よく仰ってましたわ。そこの円窓に似合う庭になってきたって」 「……そうですか……」 視界が滲んで、ちらちらと見える梅が本当に灯りのように思えた。 「ありがとうございました」 深々と礼をして穏やかな視線に見送られながら、とうとうそれは決壊し、ひたすらに頬を濡らした。同じものを見ていた。いつも、奥さんはわたしを見ていてくれた。ならばわたしは、あの円窓に似合いの庭をぜひともつくり上げなくてはいけない。落ち込んでいる場合ではないのだ。 「そうだ、今年は藤棚をつくろうか」 きっと奥さんは遠く遠いところからでも見てくれるだろう。そうしてきっと「綺麗ね」と笑ってくれるに違いない。知らず、花屋に向かうわたしは浮き足立っていた。 奥さん、わたしはもう少しだけこちらでがんばるとしよう。来年はきっと、お向かいさんの円窓に似合いの藤棚が、うちの庭を彩っている。 お向かいさんの円窓 © 楽観的木曜日の女 |