さて、僕は今、非常に頭を悩ませている。
「生きるとはこれがまた、非常に難しいことだ」
 人間が人間である以上、一度(ひとたび)思考し出したならキリのない問題である。少なくとも僕はそう捉えているが、隣の愛犬とそのまた隣の彼女はそうでないらしく、同じように首を傾げて見せた。愛犬は種族が違う以上、仕方ないかもしれない。
「なあに、また小難しいこと言い出して」
 呆れた風に肩を竦めた彼女は、ふうと紫煙を吐き出した。
 確かに僕は小難しいことを思考し口にしては周囲を困惑させているらしい。自身にそういった認識は薄いが、よく陰でそう言われていることを耳に挟むので、それはそうなのだろう。
 そんな僕には、もちろん友人は少ない。小説家という、これがまた小難しい職に就いていることも一因であろうか。小説家全てが小難しいわけではなかろうが、僕の書くものはどうも小難しいのだと、いつだったか担当編集者も言っていた。
 そんな小難しい僕の少ない友人の一人が彼女だ。大学時代からの同期であるが、外見は華やかであり、商社に勤めるOLである。合コンというものに頻繁に通っていて、異性からの電話も引っ切りなしに掛かってくる彼女は、何故か、僕の家にも頻繁に通って来ていた。
「君はよく僕の家に来るね」
 思ったままを口にしたなら、彼女のまるく大きな瞳が細まる。口元は引き結ばれ、紫煙は不機嫌にゆらりと揺れた。
「なあに、迷惑だって?」
「違うよ、そういう意味じゃなくて。僕はほら、君の言うように小難しいから」
 どうもイントネーションが悪かったらしく、真意が上手く伝わらなかったようだ。「ああ、そういう意味ね」と機嫌が浮上したらしい彼女が、今度は楽しげにくすくすと笑って見せた。
 ほら、やはり生きるとは非常に難しい。
「で、急に生きることが難しいだなんて、どうしたのよ」
 彼女が僕の少ない友人の一人でいられる理由は、僕と会話が成り立つことであろう。大抵の人はこういった切り返しはせず、面倒そうに顔を顰めるばかりだ。
「だからだね」
「自己完結しないで、ちゃんと話して」
 こう言ってくれる人もまた少ない。だからこそ僕は、きちんと、正しく言葉を繰り出す必要があるのだ。
「君がいてくれて、だから、何故だかそう思うんだ」
 ゆらり、また紫煙が揺らめいた。
「……つまり?」
 つまり。
「何て言ったらいいのかな、こう……嬉しいけれど、胸が痛い」
 そう、一緒にいてくれて、君がここにいてくれる、来てくれることが嬉しくて堪らないのに、同じくらいに胸が痛い。これをどう伝えたらいいのかを僕にはよくわからない。
「……ふうん」
 囀りのように笑った彼女が、ゆらゆらと紫煙を揺らめかせる。ゆらゆらと、僕の心に揺さぶりを掛ける。
「何故笑うの?」
 少し口調がささくれ立つ。僕は精一杯思考しているけれど、やっぱり可笑しそうに囀りをやめない彼女は、気に留めてさえいない様子だった。
「考えて、小説家でしょう」
 生きるとはこれがまた、非常に難しいことだ。
 実は至極シンプルな答えがすでに僕の胸の内に用意されていたことを、彼女はそのとき、教えてはくれなかったけれど。




_20110613

教えてくれない



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