「おはようございます」


『...おはようございます...』



時刻は朝の7時ちょっと前、昨日の夜にやり残した仕事を終えたら優雅にコーヒーでも飲みながら誰もいないオフィスで自分の時間。何しようかな、社長室にでも入って、牧さんの引き出し勝手に開けちゃう事も出来ちゃう。なんてお花畑だった私の頭が、オフィスの扉を開けた瞬間に見えたツンツン頭のせいで、一気に崩れ落ちていく。何で、あんたがいんのよ、仙道彰。私が自分の席に近づこうとした瞬間に気づかれたみたいに挨拶されて、私は不服そうに眉を寄せながら仙道さんに挨拶を返した。






『...何でこんなに朝早くからいるんですか?』


「花子ちゃんの顔が早く見たくて」


『私昨日あなたの顔が見たく無いから朝早く来るって言ったんですけど聞こえてました?』





『後ちゃん付けやめて』と、もう恒例になってるみたいな台詞を呆れたみたいに漏らしていった。私は流れる様に自分の席に鞄を置くと、昨日そのまま放置した印刷物をコピー機まで取りに行って『え?』と動揺した声を出しながら、確認するみたいにコピー機の周りを見回していく。何してるって、昨日印刷したはずの資料が無かったから。え?なんで?昨日、私印刷してなかった?夢でも見てた?え?なんて、困惑している私をよそに仙道さんがゴホンと、わざとらしく咳払いをしてみせた。私は仙道さんか。なんてムッとした顔して仙道さんの方へと振り向いて『仙道さん、何かしました?』と眉を寄せる。仙道さんは私と目が合うとにっこり笑って自分のデスクを指さすと「あー、ゲホンゲホン」なんて言いながらわざとらしく咳払いをした。私は仙道さんが指さした机の上を確認するみたいに視線を落とすと、昨日コピーしたであろう資料がそこにあって、一部ずつホチキスで止めてあるのが目に入る。いや、なんならホチキスで止めてある部分が私の方に見える様に置いてあった、凄くわざとらしく。






『仙道...さんが、やってくれたんですか?』


「うん」


『ありがとうございます...』


「お礼はいいから、何かご褒美が欲しいな」


『....調子に乗らないで』





眉を寄せる私に仙道さんが席を立って私に近づいて来ようとしていたのが見えて『1m』と、小さく呟いた。私の言葉に何故だかあはは、と笑った仙道さんが「そーだった」なんて困ったみたいに眉を寄せてそのまま私を見つめる。私は『何がいいの?』と、さらに眉を寄せて仙道さんから視線を逸らした。





「ん?」


『だから、ご褒美』


「...本当にご褒美くれるの?こんな事で」


『一応私の仕事だったから、ってだけよ』


「そーだな...今夜、空いてる?』


『今夜は社長と取引先との会食があるでしょ...それに、空いてたとしても、あなた変なことしそうだし』


「あはは、そっか。俺も参加するんだっけ?空いてたら飲みに誘おうと思っただけだよ」






「ま、して欲しいなら別だけど。会食後にでも、さ」なんてクスクス笑った仙道さんの言葉に『して欲しいわけないでしょ』と私はため息まじりに言いながら口を尖らせた。本当、隙あらば変なことをしてるこいつがなんで私の補佐なのかわからない。確かに仕事はできるけど、性格に難ありでヤリチンなんて問題だらけだわ。なんて思いながら私が秘書課から出て行こうとすると「どこ行くの?」と、仙道さんの声が聞こえて『トイレよ』なんて私はため息まじりに呟いていく。せっかく朝早く来たのに、あいつのせいで台無し...と、眉を寄せながら私はその場から立ち去っていった。




















『社長...どこら辺ですか?』


「多分ここら辺なんだが...」




朝一の会議が終わってすぐに、鞄に入ってた書類を家に忘れたって事で私は牧さんの家に行くことになった。勿論、私の補佐の仙道さんはいたけど、マンションの下に車を止めて、車で待機させている。つまり、私は牧さんと2人っきりで牧さんの家にいた。まぁ、書類を家に忘れると言うことが何度かあったし、牧さんの家には何度か来たことはあったけど、前はもっと散らかっていて女の影なんか微塵もなかったのに、入った瞬間に香ってくる牧さん以外の匂いに私はピクッと眉を寄せた。もう、一緒に住んでたりするんだろうか。なんて、私には関係のないことなのに胸が勝手にチクリと痛んだ。そのまま牧さんの寝室に通されて、私は牧さんの部屋の机に向かって書類を探していく。途端に牧さんが「お、あったあった」なんて言いながら私の後ろから手を伸ばして、机の上に散らばってる書類の中から1枚の封筒を取り出した。ただ、牧さんが私の後ろにいて、書類を取るだけのほんの些細な行動なのに、後ろから香ってくる牧さんの香りにドキドキしながら私は小さく瞼を閉じる。牧さんは私とこんなに近くにいたって意識することはないし、本当にただの秘書だと思ってるんだろうな。なんて、苦しくなってく胸が更に締め付けられるみたいにギュッと痛くなって、私は誤魔化すみたいに『今後はこう言うことがないように気をつけて下さいね』と、後ろを振り向きながら小さく呟いた。牧さんは「あぁ。いつも悪いな」なんてフッと笑いながら、困った様に眉を寄せる。『それじゃあ戻りましょうか』と言って牧さんと部屋を出た瞬間に、玄関に誰かいるのが見えて、スーパーの袋をバサッと落とした音が一緒に聞こえると同時に牧さんが玄関に居る人物の名前を呼んだ。多分彼女なんだろうけど玄関に立っていたのは、私とは正反対の可愛らしい女性で、化粧はして無さそうだし、見た目に気を使う感じでも無いし、身長だって高くない。仕事だってバリバリできる感じじゃないくて、私のイメージしていた牧さんの彼女とは似ても似つかないくらいだった。その女性が「牧くん」なんて牧さんの名前を呼んで、玄関を飛び出した瞬間に、牧さんが追うみたいにその人の名前を呼びながら、牧さんは焦った様にその人を追いかけていく。私はその場からしばらく動けなくて、頭を整理するみたいにギュッと目を瞑った。今のが牧さんの彼女、なんだよね?私とは全く違う、可愛らしくて、守ってあげたくなる様な、そんなタイプが好きだったんだ。私とは全然...。なんて頭の中で浮かんでいく言葉が私の胸をギュッと締め付けて、同時に牧さんの部屋に来ただけで浮かれていた自分が馬鹿みたいだと思った。学生の恋愛じゃあるまいし、私のこと眼中にない相手に想いを馳せて、本人には口にする勇気すらない自分が、馬鹿みたいに弱虫で、牧さんが後ろに立っただけでドキドキして、勝手に苦しくなって、本当に私って馬鹿だ。閉じた瞼を開けると、少しだけじわりと滲んだ視界を誤魔化すみたいに『落ち着いて、仕事中』と、自分に言い聞かせながらぽつりと呟く。そう、仕事中なのよ。この書類を持って帰って、データにして保存した後に少しまとめて、次の会議用に印刷して、あ、そうだ。今日の夜は会食があったから、その準備もしなきゃ。なんて苦しくなっていく胸を誤魔化すみたいに仕事のことを考えていって、私は牧さんの家から静かに出た。だけど、エレベーターに向かう途中で聞こえてきた愛の囁きの様な言葉に、私はまたピタリと足を止めてしまった。牧さんが恋人に伝える甘い言葉が、牧さんの彼女であろう女性が「大好き」と、牧さんに伝える言葉が、私の痛んだ胸を更に痛めるみたいに響いていく。仕事中、と自分の頭の中で何度も何度も復唱して無理やり足を動かして、抱き合ってる2人の後ろからゴホンっとわざとらしい咳払いをして見せた。私も、居るんだって馬鹿みたいに主張して。





『社長、業務後にお願いします』


「悪い。今日はもうあがらせてくれ」


『...私に決定権があるなら却下しますよ。この後経営会議もありますし、それに今日は夜に会食もあるんです。業務後でしたらいくらでもイチャついてくださって構いません』


「あはは、そこをなんとか頑張ってくれよ」






そう言って眉を寄せながら困った様に笑った牧さんに『ひとつ、貸しですからね』なんて言って私は牧さんから視線を外していく。そのままタイミングよく来たエレベーターに急いで乗り込んで『それでは社長、お疲れ様でした』と、お辞儀をしてエレベーターの扉が閉まるのを待ってたけど、人生の中でエレベーターがこんなに閉まるのが遅いと感じるのは初めてだった。早く閉まってよ、早く。と現実を見せつけられる様な光景を見たく無くて、この場から早くいなくなって、私の存在ごとこのまま消しちゃいたかった。牧さんが恋人を抱きしめて、甘い言葉を囁いて、仕事中とは全く違う、優しそうな顔をして、私以外の誰かにそんな事をしている現実を、見たくない。視界がどんどん滲んでいって、溜まった涙が溢れそうな瞬間にエレベーターの扉が閉まっていく音が聞こえて、私は急いで1階のボタンを押した。もう、考えちゃ駄目。まだ仕事中で、マンションの前に止めてある車には仙道さんだって乗っている。泣くなら、業務後にするのよ花子。わかってるでしょ、私は強くて、仕事もできて、牧さんの右腕なんだから。こんな事で、仕事を放棄したり、しないでしょ。なんて自分に言い聞かせるみたいに頬に流れた涙を指先でサッと拭いていく。気持ちを落ち着けるみたいに上を向いて深く息を吸ってから、フーッと息を吐いていって、潤んだ瞳を乾かすみたいに瞬きを我慢した。多分、目が赤いから仙道さんに気づかれない様にしばらく目を合わせない様にしなきゃ、絶対に。大丈夫、大丈夫。と、心の中で呟いていって、何度か深呼吸をした後に1階に到着した事を知らせる音とアナウンスが流れて、エレベーターの扉が開いていく。うん、大丈夫。なんて馬鹿みたいに言い聞かせながら、仙道さんの乗ってる車の後部座席のドアを開けて静かに乗り込んだ。「お、書類あった?」なんて助手席からこちらを振り返る仙道さんが私の顔を見たのが視界の隅で見えて、私は見られない様に顔を逸らしながら『あったわ。でも社長は今日はもうあがるらしいから、帰って会食のキャンセルしないとね。それと次の会議も社長がいないからリスケして...』と仙道さんに様子を伺わせない様にどんどん口を開いていった。「なんか、あった?」なんて私の話を遮って聞こえた仙道さんの声に『何も無いわ。早く帰りましょう』と淡々と返していって、私はそのまま窓の外を見つめていく。仙道さんが何か言いかけて、聞きたくない私は『お願い。本当に今は、何も聞かないで』と、思い出して泣き出しそうな気持ちをグッと堪えて言った言葉に「わかった」なんて素直に引き下がった仙道さんに、何故だか少しだけ救われたような気がした。










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