Chapter 2


 帝都第三層――ユスキュダル・バニヤス邸。

「そんなものもはや記憶の彼方であるということを申し上げておきますが、おそらくは、それは本物です。矛盾はない。だからといって、直系に当たる誰かがそれをばら撒いているなんて短絡思考は願い下げですけど」

 よく晴れた日の、芽吹き始めた木々に囲まれた離れ。邸宅の主の前、飴色に焼けた机に一枚の紙切れを置きながらトゥルスは断言する。口調だけは丁寧なものの不機嫌さを隠そうともしないトゥルスに太い苦笑を見せて、バニヤスは鷹揚に顎を引いた。

「充分だ」

 何がどう充分なのか、ゆるく笑みながら葉巻を燻らせるバニヤスを見据えたまま、判然としないトゥルスが眉根を寄せる。眩いだけの陽光が枝のかたちの影をもたらすほのかな翳りに、ゆらり、と、紫煙が昇っていった。
 そんな豪商邸の一室、腕を組んで窓に背を向けながら顔だけを巡らせて白壁が並ぶ街並みを眺めていたトゥルスに声がかかった。

「貴方がいらっしゃるなんて、珍しい」

 ほのかな微笑を浮かべるのは、長身で痩身の、艶やかな黒髪をゆるく束ねた紫紺の目の青年。見知った細面のテウトニー族を横目で見遣り、トゥルスは盛大な溜息をついてみせる。

「うちのいい歳した大きな子どもの雇用主に出資してる最大手の豪商のご機嫌取り」

 一息で言い切る先客の億劫そうな拗ねたような物言いに、長身のテウトニー族――アルベルトゥス・ラエルティオスは思わず苦笑を零した。

「今はその豪商と私の連れが談話中でしてね。要するに手持無沙汰なんですよ」

 聞いてもいないことを一方的に話してくる相手に、トゥルスはいささかげんなりした色をその緑の目に浮かべる。それに気づいてか気づかずか、どこか学者然とした物静かな微笑を湛えて、ラエルティオスは続ける。

「まだ異民族街に? 望めば彼の大傭兵と同じ扱いを受けることもできるでしょうに」

 あらぬ方を見遣って、トゥルスは軽く肩をすくめる。

「趣味じゃないだけさ。そんな不毛なこと話したいなら、悪いけど、失礼させてもらうよ」
「どちらにせよサディヤ候の私兵とでも一緒にでなければ、危なくて市内など歩けたものでもないでしょう? 先日の一件以来、異民族街においては日中以外の外出は禁じられてしまっていますし、三層以下であっても我々への目線は友好的なものとは言えない。お互いに待ち時間を持て余しているんです、雑談でもしませんか」
「暇人」

 思わず相手に向き直ってしまった、やや目つきが悪くなったトゥルスが即答する。そんなトゥルスに黒髪のテウトニー族は決して冷たいわけではない透きとおった薄氷のような微笑を浮かべた。

「レーム塔襲撃から二週間ほどですが、首謀者はまだ捕まってはいないらしいですね。帝都警察と、近衛軍が、捜索に当たっているようですが」

 深い緑の目を正面から絡め取るためにわずかに持ち上げられた紫紺の目に、燦然と降り注ぐ陽光の煌きが流動する。

「見つからないにもほどがある」

 薄い唇から紡がれた断言に、口調の穏やかさとは裏腹な意思を打ちこむ楔のような響きを感じ取ったトゥルスは少しだけ目を細める。

「そうは思いませんか?」

 どこか挑むような問いに、トゥルスは失笑を零して。

「もう帝都にはいないんじゃないの?」
「それこそ近衛軍が気づきそうなもの。皇帝直轄領に張り巡らされている彼らの網は、諸侯の私軍の寄せ集めでしかない帝国軍の比ではありませんから」
「なら、帝都にいるんじゃない?」
「では、なぜ見つからないのでしょうね。帝都においては職務が被りがちであるために何かと摩擦の絶えない二者が協力までして臨んでいるのに」
「そんなこと、僕が知るわけないだろ」

 降参、とばかりに、トゥルスは軽く諸手を挙げてみせる。

「では、こうは思いませんか? 帝都警察の目をかいくぐり、近衛軍の目をすら眩ませることのできる何ものかが、彼らを匿っているのではないか、と」

 この話題から逃れたいのかどこか投げやりなトゥルスと、そのトゥルスを掬うように絡め取るラエルティオスと。
 空を彩るは透明の蒼。晴れ渡った蒼穹から落ちてくる陽光が、窓の前に佇む青年の明るい橙の髪に黄金を与え、その前に立つ青年の黒髪に白銀のきらめきを与える。
 ふ、と、トゥルスの唇が冷笑をつくった。

「何が言いたいのさ」

 細められた紫紺の目に探るような色が浮かんで。

「なに、ただの暇つぶしですよ」

 陽に透かされる白皙の薄い瞼が、ゆったりと、冷たいわけではない冷ややかな印象を纏う青年の内面をちらつかせる紫紺を隠した。

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