Chapter 3


 そして、女の館で僕はひとりの男と出会う。

「時折、ふと、脳裏を過ぎるものがあってね」

 堆く積まれた文献に埋もれる椅子に腰掛けた物静かなそのひとは、羊皮紙を捲りながら、そのひとから受け取るよう命じられた――すっかり忘れていたのかは知らないけれど少なくとも準備されていなかったことだけは確かな――壁一面では飽き足らず床にも山になっているそれらの中から目的の古文書を探す僕に向かってかそれとも独り言なのか、とにかく、零れ落ちる思考をそのまま言葉にしたかのような声音を紡ぎ始める。

「あるひとつの名を共有する彼らが織りなす世界に生きていながら、彼らから完全に距離を置いている――置かざるを得ない、と、そう言った方が的確か――誰かの目には、自らを取り巻く世界がどう見えているのだろうか、と。隔絶ゆえに排斥を得、乖離ゆえに客観を得る。所詮は距離を置けるひとつの対象に対しての視座でしかないが、それでも、完全なる孤立からのそれは得難い。相対した他者を概観するように、自らが無意識の裡に同化しているそれを眺めることができるのなら、それはある者にとっては少しの救いとなるかもしれない。もっとも、手にしたささやかなそれを振りかざすのなら、割れた海の底に再び水が押し寄せるように、潰されゆくのが精々かもしれないが」

 おそらくは返答や相槌など期待していないであろうそれを聞きながら、僕は探しているひとつを求めて周囲に眼を這わせる。

「相違にして差異。ゆえに、ある領域における平穏を突き破りそれを当然とする者。だが、同じではないという意味での異物をすら取りこまねば得られない利に目覚めてしまった時、ある領域における既存というものに――できることならばそれを構築する者にとって最大の利となるように――彼らを溶けこませようとするのなら、そこに現出するのは一種の相克。同類であってすら争いが絶えず、それゆえに構築されてきた感情の回収と利害の整理を目的とする諸々は、当然、ある程度において良否や善悪の定義が共有されている者たちが構成する一定の領域においてしか意味はなさない。極論するのなら、それは、納得を生み出すために感情を排するという選択の極致が吐き出した帰結。同類ですらそれなのだから、相対する者たちにおける純然なる利害の一致など、夢想するにもほどがある」

 ぱらり、と、羊皮紙が捲られた。

「だが、もしも普遍たる一致が在るとするのなら」

 ゆるやかな上澄みに沈む執着のような響きに、思わず、背伸びをしながら壁に並んだ本の背表紙に指をかけていた僕は肩越しに背後を振り返る。
 そこにいたのは、少しだけ離れた位置に置かれた燭台にゆらめく控え目な橙にさざめく、羊皮紙を捲り続ける眼鏡をかけた男。穏やかな蒼の目で文字を追いながら、ゆったりと、男は唇だけを動かす。

「何ものにも左右されず干渉すら弾きながら立ち続けるそれが在るとするのなら、夢想は理想へと変転するのではないかと、そんな夢物語を描いてしまうほどには――――」

 ひどく惹きつけられ、ひどく甘やかで、焦がれるほどに魅せられる。
 それが衝動とは別なものである、と、そう断言することは誰にもできないであろうけれど。
 あのひとの言葉を借りるなら、結果として、あのひとは水に潰され呑まれたのだろう。
 その時、あのひとの目には何が見えたのだろうか。
 望んでいたのかもしれない立ち位置に納まった時、あのひとの目には、何が。
 結局はあのひとの思惑など何ひとつ明らかにならないまま、ふわふわとした憶測といささか刺々しい思惑だけが絡まって、あのひとを首謀としたあの出来事はいまだ着地することができずに浮遊しているようでもある。
 まぁ、そんなことはどうでもいいのだけれど。

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