「先輩が、ピアノを弾くことの楽しさを、思い出させてくれたから、なんですよ」


そう言った演奏者はひどく嬉しそうに笑っていた。


「先輩は僕のピアノなんか聞いていつもいつも笑って、スゴイだのキレイだの言って。最初は、ウザいなって思ってたんですけどね」
「……(ウザかったんだ。ちょっとショックかも)」
「でも…、僕に何言われても楽しそうに笑っている先輩見てたら、なんだかピアノを弾くのが楽しい気がして」
「……楽しくなかったの? ピアノを弾くの」


だってその言い方はまるでピアノが好きじゃないみたいだよ、聴き手は声にしないでそう思った。悲しそうに眉を下げる聴き手に演奏者は小さく苦笑した。


「昔は楽しくなかったですね」
「そう…」
「僕にとってピアノは弾かなければならないもの、だったんです」
「弾かなければ、ならない?」
「そうです。…先輩は知らないかもしれないですが、これでも天才だとか言われて、コンクールでもほとんど優勝してるんですよ」


聴き手には純粋にスゴイ事に思えるのに、演奏者は嘲笑していた。


「でも僕はそんなのどうでもよかった」
「え?」
「…僕は、もう。…本当はピアノなんて弾きたくなかった。何のためにピアノを弾いているのか分からなくて、だけど弾かないなんて選択肢はなくて…。ただ、言われるままに弾いていただけで、意味なんてものは、当の昔になくなっていたんだ」


右手の人差し指で鍵盤をひとつ叩くと、淋しく音が響いた。


「だけど……そんな僕のピアノを、先輩は好きだと言ってくれたんです」


覚えてなくてもいいですけど。そう言う演奏者を聴き手は目が離せなかった。淋しそうなのになぜか晴れ晴れとしている演奏者の小さな微笑みに、目が離せない。


「先輩だけでした。…あんな風に僕のピアノを屈託なくキレイだ、なんて言ったのは。…それから先輩はことある毎にアレ弾けコレ弾けって言って。弾くと楽しそうにスゴイって笑って……そんな人、僕の近くにはいなかったから」


聴き手は覚えていた。というか、忘れるはずがなかった。好きだと言ったのは自分だし、なによりその気持ちは変わっていない。聴き手は今だって演奏者のピアノが好きだ。


「嬉しそうに笑う先輩の顔が見たくて、ピアノをもっと上手く弾きたいと思った。ピアノを弾けば先輩が喜んでくれて、笑ってくれたから…、僕は嬉しいと思ったんです」

「それからもっともっと深くピアノを知りたいと感じて、技術だけじゃなくて、誰かを楽しませるように弾きたいと思った。……僕に足りなかったのは、表現力と、気持ちだって分かったのは、先輩のおかげなんです」


ありがとうございます、と穏やかに言った。


「ありがとうございます、先輩」
「…え? …や、はい。どう、致しまし、て?」


聞き役に徹していたせいもあってか、突然呼ばれた聴き手は焦ったように答えた。そんな聴き手に演奏者は小さく笑みを零した。今日の演奏者はよく笑う。本当に小さな笑みではあるけれど、さっぱりとした顔だった。


「さっきの曲なんですが」
「…へ? あ、さっきの! キレイだったよスッゴく!」


急な話題転換に驚きつつも、聴き手は今しかた演奏者が弾いた曲を思い出していた。

どこか聞いた事のある、けれど知らない美しい音色。


「ありがとうございます。……あれはベートーベンのピアノソナタ第14番、通称は月光って言います」
「ふーん…でも最初のは聞いた事あったよ」
「第一楽章ですね。あれは有名ですから」


そう言ったまま何かを言い淀む演奏者は椅子の横に置いてあったカバンからノートのようなものを取り出した。それは薄い楽譜だった。一度確かめるように表紙を見て椅子から立ち上がり、聴き手に向かって差し出した。


「コレ、月光の楽譜なんです。…先輩にあげます」
「え? でも私…」
「先輩が音符読めないのは知ってますよ」
「なっ、意地悪?」
「違いますよ(…ちょっとあるけど)」ぼそっ
「今ぼそっとなんか言ったでしょ?」
「気のせいですよ」


見下した笑い方をする演奏者に腹を立てて、でもなんだかほっとして聴き手も笑った。さっきまでまるで見た事のないような顔で話す演奏者が知らない人に思えたのだ。まだほんの少しだけ目線が下の男の子。出会った頃よりは縮んだその身長差が時間は経過を表しているようだった。

そしてまた、演奏者は聴き手の知らない顔になる。


「受け取ってくれますか?」
「…うん。ありがとう」


受け取った楽譜を両手に持って聴き手は息を吐き出した。どうしてか心臓が高鳴っていた。


「でも、…なんで?」


聴き手は楽譜を胸に抱き締めて、演奏者に聞いた。


「先輩に、忘れてほしくないから」
「…なにを?」
「……僕は留学をしてしまうけど、それで終わりにしたくない」


演奏者は一歩近付いた。強くまっすぐな眼差しが聴き手を捉えた。


「先輩が待ってなくても迎えに行きます」
「な、んで…?」


もう一歩近付いて、手を伸ばせばすぐに触れられる距離。

(どうしてかな……息が、止まりそう)

聴き手は動けずに、ただ楽譜を持つ力をぎゅっと強くした。そして間近にいる演奏者を見て、ふっ、と何かが聴き手の前を、唇を掠めた。


「先輩が、すきだから」


いまだに鼻と鼻が付きそうな距離にいる演奏者が静かに告げた。


「…え。す?え? …ていうか、今…?」
「僕は先輩がすきです」
「っ!」
「卑怯なやり方ですみません。でも諦めるつもりはありませんから」


艶やかに微笑む演奏者の右手が聴き手の唇に触れた。その事で何に大して謝っているかをやっと理解した聴き手は顔が赤くなるのを感じた。顔どころか体が熱くなって、恥ずかしくてたまらない。逃げ出したいはずなのに、体は動こうとしない。


「…てっ ていうか、さ、少年、近くない?」
「そうですか?」
「ちち近いって!(てか少年キャラが違う!)」
「嫌なら、先輩が動いたらどうですか?」
「…っ」


目を覗き込まれて聴き手は息を飲むしかできなかった。

けれど演奏者の言う通りだった。演奏者は決して聴き手を捕まえてはいなかった。ただ優しく触れているだけなのだから、聴き手が後ろに退けばその距離は簡単にできるだろう。

(分かってる、分かってるよそんな事! でもなんで私動けないの? なんでこんなに心臓痛いの? なんで私、嫌じゃなかったの? あれ、嫌じゃなかったよね。びっくりしたけど、でも、ドキドキして、恥ずかしいけど、嫌じゃなくて……え、私、嫌じゃないってあれ? え、あ。)

聴き手はその時やっと気付いた、自分の気持ちに。


「…先輩?」


急に俯いた聴き手から手を放した演奏者は心配そうに呼んだ。少しやり過ぎたかと思いつつも後悔はなかった。ここまですれば忘れられないだろうと思ったからだ。


「……じゃ、ない」
「はい?」


けれど嫌われたくはなかったから、一歩下がろうとした時。掠れた小さな声が聞こえて、演奏者は聴き手を見た。


「嫌、じゃないの」
「え…」
「少年がすごく近くにいるのも、少年からの言葉も、その…、キスも、嫌じゃない」
「……それって…」


聴き手が顔を上げて、2人の目線が絡んだ。


「私、少年がすき、みたい」



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