ブルーセックス


1.


 髪を洗う。
 さらさらと指の間を零れ落ちていく黒髪は、絹のように細く乾燥していてなかなか水を吸おうとしない。片手にシャワーヘッド、片手に彼の頭を抱え、丹念にぬるい湯を当てていく。
 恐ろしくはないのだろうか、と考える。臨也は長い間宿敵だった相手の前で、無防備に背中をさらしたまま目を閉じて動かない。時折幽かに裸の肩が上下するのがわかるが、それだけだ。眠っているのだろうか、と思う。浴槽の中で眠りこけるほど、疲れてしまったのだろうか。


 何もかもうまくいかない日だった。取立ての仕事は失敗続き、トムには最近荒れてるんじゃないかと心配されるしまつで、自分の無様さに苛立ちが募った。いちど悪いことが怒ると、まるで連鎖反応のように、次々小さな嫌なことが続いてしまうものだ―落ち込み慣れている者の悪癖だ、と自覚はしていた。嫌なことが起きるのに慣れっこになっていて、すぐさま悲観的になってしまうのだ。

 罵られることも恐怖されることも、傷つけたくない相手を傷つけることも、静雄にとっては日常だった。あまりにも日常と暴力が結びつきすぎていて、きっともうどうしようもないのだ、と思っていた。悲観的、というのとは違う。冷静に、淡々と、自分が他の人間と同じには生きられないのだろうと理解していただけのことだ。


 指示されたとおりのシャンプーを手に取り、そっと彼の頭に乗せる。掌と、親指の腹で、揉みほぐすようにそっと白い泡を立てていく。静雄の力のままに髪を掻き回せば、うっかり彼の首を丸ごともいでしまいかねない。そんなスプラッタはごめんなので、ことさら指先に神経を使う。


 女と歩いている臨也を見たのは、初めてのことではなかった。見るたびに違う女が隣には並んでいて、あるいは複数の少女に取り囲まれていることもあった。その度に静雄は余裕をもって思うことができた。ああまたあいつ女を食い物にしようとしてんのか。そんなことにも気づかねえで、あの女も可哀想だ、と。

 臨也のことを好きだとことさら意識していたわけではない。初めからどうしようもないとわかっていたし、知られて利用されるよりはこのままでいたほうがいいと嘯いていたのかもしれない。何れにせよ静雄はそれまで自分の感情をまるで理解していなかった。感じる余裕は女に対する同情ではなく、明白な安堵だと判断付けることができなかったのだ。
 だがその瞬間、静雄は自分に嘘をつくことができなくなった。

 臨也の隣を歩いていたのは、見覚えのある女だった。事務所に頻繁に出入りしている女だ。買い物袋らしい荷物を二人で抱え、なにやら楽しげに言葉を交わしている。もっとも話しているのは臨也一人で、女は冷めたまなざしで時折相槌を打つだけだったが―それでも彼女が、臨也にとって他の女と違う意味を持つ女性だということくらいはわかった。
 いつ彼の手をとり、路地裏に引きずり込み、強引に壁に押し付けたのか覚えていない。

 何れにせよ我に帰ったとき静雄の目の前にあったのは、無惨に引き裂かれた服からあちこち肌を露出させ、赤黒い歯形や内出血の痕を無数に纏った、ぼろぼろの臨也だった。

 激痛に滲む冷や汗と、出血してますます血の気の失せた青白い皮膚。奇妙な方向にねじれた右脚、は、きっと強引に脚を開かせた時に外してしまったのだ。折ってしまったのかもしれなかった。抱え込み、押し付け、そのまま強引にこの体を扱ったのだと―理解するのは早かった。あまりにも早かった。

「は、め、・・・て」

 ぜいぜいと荒い呼吸の下で臨也が言った。唖然と眼を見開くと、右脚を指差す。

「関節が外れてる、から」

 抱えあげていた体を慎重に下ろし、指示されるままに股関節を嵌める。臨也は一瞬激痛に顔をゆがめたが、声一つ上げなかった。人に見られまいとしているのだ、と悟る。こんな姿を誰かに見られてしまわないように。もしかして、行為の最中も―彼にとっては苦痛でしかなかっただろう強姦の最中にも、こうして歯を食いしばっていたのだろうか。声一つ上げるまいとして。

 脳内には、またやってしまった、という言葉が瞬いていた。初恋の―その時は初恋だと意識してはいなかったが―女性を傷つけてしまった時のことを思い出していたのかもしれない。破壊されつくした室内と、倒れた男たちと、そして彼女。血を流し意識のない姿を見て、怪物である自分を思い知ったときのことを。

 歩くことは難しいらしい臨也に言われるまま、肩を貸して立ち上がらせる。かろうじて原形を保っていたズボンを静雄に借りたベルトで留め、コートの前をきっちりと合わせてやると、どうにか怪我の痕はごまかせた。
 肩を貸し、半ば抱えるようにしてタクシーに乗り込む。臨也は短く新宿までと言った。わかりました、と答えて滑るようにタクシーは発進する。何故一緒に乗せられたのかわからないままに、静雄は臨也の体を抱えた。ともすればくずおれそうに細く、弱りきっていた体を。


・・・


 到着した臨也のマンションの前、抱えるようにして彼を部屋まで連れて行く。帰れといわれないのは何故だろうと思いながら、指示されるままの暗証番号を入力して部屋に彼を連れ込む。ソファに寝かせようとすると「ベッドはあっち」と指差された。廊下を通り抜けると、なるほど寝室がある。割と大きな部屋で、キングサイズのベッドが中央に堂々と鎮座していた。ベッド、と、臨也。傾きかけた思考を叱り飛ばし、慎重に抱き上げて彼を寝かせる。命じられるままにベルトをはずし、コートを脱がせた。とたんに露わになる素肌と、その上の無数の傷。
 してしまったことをまた思い知らされる。
 ここにいるべきではなかったのだと踵を返して立ち去ろうとした、とき。

「シズちゃん」

 名前を呼ばれた。
 その声は何故か優しく、どこか甘ったるくすら響き、静雄は驚いて振り返った。臨也は裸の上半身を起こし、表情の読めないまなざしで静雄を見ている。

「おいでよ」

 招かれるままに歩み寄る、と、腕を回された。

「しないの」
「・・・は?」
「セックス」

 今度こそ唖然として眼を見開く。動けずにいる静雄に構わず、臨也は身じろぎをして静雄の顔に腕を伸ばした。引き寄せられ、細い指がサングラスをはずした。そのまま唇を重ねられる。暖かな感触だった。ファーストキスだ。ぼんやりと夢見てきたのとはまるで違う、けれど何倍も柔らかいキスだった。

「したいんでしょ、俺と」
「そりゃ・・・そうだけどよ」

 茫然としたまま答える。

「なら、いいでしょ」

 しよう。幽かな声が耳をくすぐる。わけがわからなかった。臨也の言っている言葉の意味も、意図も、理由もわからない。罵られていいはずだった。軽蔑されるべきだった。ところが彼は静雄を寝室に上げ、あろうことかもう一度しようと言う。

「・・・てめえ、俺が何したかわかってんのか」
「わかってるよ」

 あっさりと彼は言う。

「君が本当はしたくてしたくてたまらないってことも、でも俺を好き勝手した罪悪感で何も言えないってことも、俺の怪我だらけの体に負担が掛かるって心配してることも」

 あからさまに図星をつかれて愕然とする。

「だってシズちゃんはそういう奴だからねえ」
 薄く楽しげに臨也は笑い、弱々しく腕を上げて立ち尽くしている静雄を抱き寄せた。

「それならさ、交換条件でどう?」
「・・・交換、条件?」
「明日、朝起きたらさ、俺を洗って」

 してほしいこと全部言うから、その通りに丁寧に、俺の体を洗ってよ。
 もう一度唇を重ねられる。舌が生きた魚のように跳ねて静雄を翻弄する。ようやくそれを捕まえて深く吸ったときには、臨也はとうに服を脱ぎ、静雄も広すぎるベッドの上で彼を強く抱いていた。


・・・


 昨夜と同じ裸の上には、治りようもない痕がまだ明確に残っている。見るとはなしにそれを眺める。浴槽に沈む青白い肌はなんだか非人間的にみえた。映画に出てくる半人半魚の怪物のようだ。青い皮膚が海面に透け、そのまま水面に溶けていくような気がしてふと不安になり、彼の手を見る。そこに水かきがないことを確かめて、ばかばかしいことだが、安心してしまった。
 指先でシャワーの温度を確かめる。静雄にとってぬるいくらいが臨也にはちょうどいいはずだった。片手で首を支え、ゆっくりと上を向かせる。額から下に泡が流れないよう細心の注意を払って、緩やかに流れるお湯を彼の髪にそっと当てる。白い泡がきれいに流れ、いつもの艶やかな黒髪が姿を現してゆく。
「シズちゃん」
 不意に、眠っているとばかり思っていた相手から呼びかけられ、静雄は危うくシャワーヘッドを取り落としそうになった。慌てて握りなおし、「何だ」と答える。

「シズちゃん、俺のこと好きなの」

 今それを聞くのか。
 答えあぐねて黙る。だが重ねて問われ、答えなくてはならないのだと思った。どのような理由があっても、静雄がしたことが消えるわけではないが―加害者である静雄は、臨也に全てを話し、許しを請う義務がある。

「・・・ああ」

 短く肯定の言葉を返すと、臨也はしばらく、何も言わなかった。意味もなく丁寧に髪を洗う。すっかり泡も流れ落ち、さらさらと元の感触を取り戻そうとしている髪に湯を当てて漱ぐ行為は無駄そのものだった。そわそわと落ち着かない、断罪される囚人のようなそれとはとてもよく似てはいたが、どういうわけか少し違った。しばらく考えて思い至る。少し、似ている。学校帰りに毎日あの眼鏡の女性の家の近くを通っていたあの幼い頃、家の中をのぞくたびに疼いた疚しいような気持ちに似ているのだ。
 長い長い間、実際にはほんの数十秒だったのだろうが、臨也は黙っていた。
 そしてようやく、ぽつりと言った。

「なら、いいや」

 何がいいのかまるでわからない。
 そう言おうとして、言えないことに気づいた。限りない安堵を覚えていた。何故かどうしようもなく幸福だった。ばかばかしいことに、たった一言で、拭い去るように恐怖と罪悪感が消えていく。
 これからもそばにいていいのだと、許されたのだと思った。そして、結局のところ静雄がほしかったのは、この小さな許しと―彼の傍に並ぶ権利だったのだと、知る。

「臨也」

 名前を呼ぶ。水栓をひねって、水を止めた。シャワーヘッドを壁に立てかけ、臨也を上向かせる。
 屈みこむようにしてキスをした。ぶっきらぼうで乱暴な、重ね合わせるだけのキス。たとえ静雄がさっき臨也の問いに答えていなかったとしても、まるっきり見通せてしまっただろう、感情を丸裸にしたそっけないキスだった。技巧でないほうがまっすぐに真実を伝えることもある。

 きっとこれから先ずっと悩む。苦しむだろう。
 静雄は考えることが苦手だ。だが、こと臨也との付き合いにおいては思考を拒否してはいられないだろう。臨也は仕事をやめはしないだろうし、これからもあらゆる人間と関わり続けるのだろう。静雄だけはその愛から外される。そのことにこれまで苦悩してきたし、これからも苦悩し続けるのだ。きっと。

 だが静雄は今、浴槽の中で揺らめく臨也の裸をそのまま横たえておくことも、腕を回して抱きしめることもできる。臨也が、静雄にそれを許した。

 だから、静雄は信じる。自分自身を、臨也を。
 リンスもしてよと要求してくる臨也の細い頭を支えながら、静雄は彼のことが好きだともう一度思った。

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