3.

 夏の始めの頃、昨年の切り裂き魔に代わって世間を騒がせていたのは「神隠し」だった。初めに若い女性とその幼い子供が、それからは次々七人もの幼い子供たちがどこへともなく姿を消してしまったのだ。母親たちや若い女性たちはみな戦々恐々とし、これは祟りだと云って恐れた。続く怪異に広がる恐れから皆懸命に顔をそらして俯く、暗い色合いが都を覆っていたころの話だ。

 納涼花火を見に行こう、と言ってよこしたのは、弟の幽だった。常に無表情で自分の感情をめったに表に出さない弟が自ら催しごとに誘ってくることなど珍しい。訳を聞くと、彼の恋人が行きたがっているのだそうで、一緒に来てくれないか、との事だった。

 幽は新劇の役者をしている。名家の身分に生まれた男児が役者になるなど身を持ち崩すようなものだ、と周囲は眉を顰め止めたが、聞く耳を持たず家を飛び出し、今や美しい顔と優れた演技で新劇の世界では知らぬもののない役者である。静雄も密かに何度か幽の劇を観ていたが、まるで別人のように表情豊かな弟の姿には驚かされた。これが彼の天分だったのだろう、とすら思えたほどだ。
 家を飛び出した後も静雄とは手紙のやり取りをしていた幽が、恋人ができた、と言ってきたのが三ヶ月ほど前のこと。相手は女優の聖辺ルリという人だ、とだけ聞かされていた。

 誘ってくれたのは嬉しいが、恋人との時間に兄が居れば邪魔なのではないかと初めは断ろうとした静雄に、幽は首を振って、彼女に会ってほしいのだと云った。勘当された身では親に彼女を紹介することはできない、だからこそせめて兄である静雄に彼女を見て、自分の選んだ女性がどのような人であるのか知ってほしいと云うのだ。

 ルリは作り物めいて整った、浮世離れした美貌の持ち主だった。浴衣に包まれた腰は折れそうに細く、儚げでか細い手足はどこか痛々しくすら映る。その弱さを守りたい、から、幽は彼女を好きになったのだろうか、と思いかけて、思い直す。彼女の瞳には時折底知れぬ深さの影が差した。見た目では図れぬ何かを、幽は役者特有の感受性で受容したのだろう。
 何れにせよ、人形のような顔立ちをした二人が並ぶとまるで日本画の一風景のように美しかった。

「似合ってんじゃねえか」

 率直な言葉は二人にとって喜ばしかったようで、ルリの頬には幾分か赤みが差し、幽は鉄面皮を僅かに崩して「ありがとう、兄さん」と言った。

 縁日は賑わっていた。三日前に大雨があって川が氾濫したばかりだったので無事行われるかと案じていたが、この様子だと問題はなかったようだ。威勢のいい呼び込みにつられて屋台をちらちらのぞいて回る。金魚掬いや風船釣りのような繊細な指先の要る遊びなどできるはずもないので、綿飴や林檎飴を適度に食べて祭りを味わう。意外だとよく云われるが、静雄は甘味が好きだった。部屋の平台の上には大きめの菓子壷が置いてあり、キャラメルや砂糖菓子で満杯になっている。

 幽はやはり器用で、ルリに持たせた巾着の中では数匹の金魚がくるくると踊っていた。左手に水風船を持ってそれをぽちゃん、ぽちゃんと跳ねさせると、つられたように金魚が水面で跳ねるのが面白いとルリは笑った。笑うと陰のある面差しが一気に色づいて花開くのを知って驚く。やはり彼女は芯の強い女性なのだ。幽は巾着を指差し、祭りの金魚は長く生きないというけれど、何年も永らえることもある、死ぬまでの間はきちんと面倒を見てやるつもりだと云った。帰り際に金魚鉢を買わないと、それなら私が持ってます、古いやつだけど、青い色をした硝子細工の鉢が。ああそれならこの金魚たちはこのまま君に持ち帰ってもらおうか。そうします、羽島さんも一緒に来ますか。二人のやりとりは睦まじく、こうした表現が正しいのかどうかは解らないが、可愛らしく聞こえた。似合いの二人だと思う。

 轟音を立てて撃ち上がる色とりどりの花火はひときわ明るく東京の都を照らし出す。遠く川の向こうには瓦斯灯が仄かに赤い色合いで揺らめき、赤々と提灯に照らされた祭りから離れて眠る街が映る。ひととき浮世を忘れる人々の熱気が静雄には眩しかった。

 長い余韻を残して花火が最後の火を散らした。一瞬静寂が広がり、そして拍手と歓声の雨が降り注ぐ。ふと傍らを見やると、幽とルリが何処にも居ない。花火に気をとられて逸れてしまったものらしかった。周囲を覆う濃密な人いきれを見るに、合流は諦めざるを得ない。彼らも徒歩なり辻馬車を呼ぶなりして自力で帰るだろう。神隠しも、まさか恋人と並んで歩く女性を攫いはすまい。

 今夜幽はルリの家に泊まるのだろうか。早いところ結婚という形を取れればいい、と静雄は思った。仲人が必要なら努めてやってもいい、幸せになって、子供の顔でも見せられる日が来れば、可愛い孫を見て頑固な両親も考えを変えるかもしれない。

 静雄は、自分が全うな結婚をし子を授かる可能性が限りなく低いことを知っている。嫡男である以上子を作り平和島の家を守るべき義務があるとはいえ、この手で、このおぞましい手で、誰か愛する人を掻き抱くことができるとは思えなかった。だからこそ、両親には早く幽を認めてもらいたいと願う。幽とルリの子が産まれその子が男児ならば、平和島の名を絶やさずに済むのだから。

 花火とともに、祭りも終わりの様子を見せていた。いくつかの屋台が店じまいの準備を始める。とはいえ誰もがまだまだ熱気に酔ったようにおぼつかない足取りでふらふらと歩いていた。

 静雄もまだ少し離れがたい思いで居た。終わりがあるから祭りなのだとは言え、非日常と熱狂は一度味わうと離れがたくなるものだ。さほど疲れも感じていないことだし、少し歩いて体と頭を冷やしてから帰るか、と、静雄は川べりに向かって歩き出した。

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