2.

 勉学はからきし駄目だと言われていた静雄が学生の身分になれたのは、父親の七光りであると巷の人間はまことしやかに囁いた。平和島の家は関ヶ原の昔から続く名家であり、維新の荒波の中で家門を立て直すことに成功した華族の好例である。列強各国と貿易することで巨万の富を築き上げた祖父の代から平和島家は衰えを知らず、嫡男である静雄は伯爵の位を持つ父の正当な後継であった。ともすれば七光りを疑われるのもいささか仕方のないことではある。静雄自身奇異のまなざしを浴びせられることには慣れており、口さの無い噂などに今更心動かされなどしなかった。化け物と罵られるより遥かにましというものだ。

 幼い時分から静雄は自らの異常性を認識していた。平和島の家は初め頑なにそれを隠そうとしたようだが、怒りに任せて次々にあらゆるものを破壊してしまう幼い暴力の前に隠し通せる秘密などいくらも無かった。目まぐるしく変わる使用人に畏怖され恐怖されるたび、静雄の心には少しずつ絶望が積もってゆき、やがてそれは暗い諦めへと色合いを変えた。

 どうせ堪えられないのなら、どうせ壊れてしまうのならば、何もかも解き放ってしまえばどれほど楽になることか!

 解放した怒りは、恐るべき勢いのままに周囲を薙ぎ払った。我に帰る頃には何も残らない。近づくものは何れ傷つけてしまう、どうしようもないその力を最初に受け容れて笑った人間が、弟の幽以外にもう一人だけいた。

 イザヤ、という名は、キリシタン信仰に出てくる預言者に倣ってつけられたのだとその男は笑った。それでは信者なのかと問うた静雄に、彼は首を振った。

「俺は神様なんか信じないよ。天国は信じるけどね」

 名前がこんなだからって簡単に決めつけないで欲しいなあ、と最高に苛立つ表情と声音で言ってのけた彼は、怒り狂った静雄の拳をあっさりとかわして逃げ抜いてみせた。

 折原臨也と仲がいいのか、と聞かれると静雄は首をひねらざるを得ない。静雄自身の感情としては彼のような人間は反吐が出るほど嫌いなのだが、彼の方は静雄を興味深く思っているらしく、事あるごとに声を掛けてくる。そしていつの間にか彼は、恐れられ遠巻きにされていた静雄にとって唯一同じ立場で言葉を交し合える相手になっていた。
 彼は奇妙な男である。精悍に整った面立ちをして、闇をそのまま切り取ったような艶のある黒い髪と、血のように赤い瞳をしている。紅を塗ったような色をした薄く綺麗な唇は、容姿端麗、と一言で片付けるにはいくぶん相応しくない淫靡な気配を湛えて嗤うのだった。静雄は彼を見るたび、幼い頃聞かされた西洋に伝わる怪異を連想する。甘い声で人を誑かしその血を喰らう死霊のことを、吸血鬼と云う。

 彼が静雄の前に姿を現したのは、一年と少し前の春のことである。例年に無い寒さだと云われた長い冬がようやく終わりを告げ、いくぶん遅れがちに桜が咲き始めた四月の半ばごろのことだ。彼は犯罪心理学の非常勤講師という肩書きで、大学の片隅の、誰も使わなくなった古い書籍をしまいこんでいる薄汚れた資料室に居座ったのだ。

 とはいえ彼は非常に気まぐれで、常にそこに居るわけではなかった。いつもどこからともなく現れてはどこへともなく姿を消してしまう。講義らしい講義もほとんどせず、学生たちの間にはまことしやかに、彼は学長の愛人なのだとかいや理事長のほうだとかいう噂が流れた。なるほど彼は大層美しい容姿をしていた。学生たちよりいくつも年上であるはずの横顔には皴一つなく、女よりも細い腰としなやかな手指をしている。男色の気のあるものなら虜にならざるを得まいと誰もが認め、事実彼の品のある所作や甘い声音には虜になる学生は男女の別なく数多く居た。

 そのころ、ちょうど世間を騒がせていた通り魔の事件が一通り収束し、学生たちの間には安堵の気配が広がっていた。廃刀令が敷かれた近世の世に、無差別に通りがかった人を長い日本刀で斬りつけては姿を消す通り魔。人々は彼を―彼女、である可能性もあるが―没落した士族の亡霊だと噂し恐れ、いつしか敬意と恐怖を込めて「切り裂き魔」と呼ぶようになったのだ。一晩に何十人もの人間が一度に斬りつけられるという最悪の事件すら起きたこともある。

 英国の首都で起きた連続殺人事件の犯人になぞらえて付けられたのだろう通称を、士族の亡霊さんとやらはどう思うんだろうね?と臨也は言って笑った。初夏だというのに黒ずくめの着物に身を包み、袖や襟元から伸びる素肌がぞっとするほど白い。額には汗一つなく、妖怪めいたその様に静雄は息を呑んだ。

「・・・てめえじゃねえんだろうな」
「何が?」
「切り裂き魔」
「まさか!」

 人間を殺してどうするのさ、俺は人間を愛してるのに。死んでしまったら意味がないだろ?と笑う彼を静雄は見つめた。

「・・・でも、てめえは、目の前で誰かが自殺しようとしてもそれを止めたりしねえんだろ」
「あれ、よくわかってるね」

 あっけらかんと彼は笑い、そうだよ、と言った。

「俺は人間の全てが好きだから、例え誰かが死を選んでも、その選択を含めてその人を愛するよ」
「止めないのなら殺したのと同じことだろうが」
「違うよ。俺は、人間を愛しているから、その選択を尊重してあげただけ」

 冗談のような声音で言った言葉が彼の本質を表している。彼は人間が好きで、好きで、だからその全てを知りたがる。甘い言葉で人を誑かすのも、酷い態度で突き放すのも、そのための手段に過ぎない。

 折原臨也とはそういう、最低で下種な男だった。

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