20.

 サンジはしばらく病院に留まることになった。今の状態のままメリー号に帰ると、物事を思い出しすぎて混乱してしまうかもしれないとチョッパーが判断したらしい。だからもっぱらのサンジの楽しみは、一人ずつ交代で様子を見に来てくれる仲間たちとの会話だった。とはいえ、うかうかしていると大量の記憶に押し流されそうになってしまう。まだまだこの状態に慣れるには時間がかかりそうだった。
 病院側としても、これほど貴重な患者のデータはなるべく多く採らせてほしいというのが本音のようで、ほぼただのような値段で入院させてもらっている。チョッパーと協力してワームに関する新しい論文を仕上げているところらしい。サンジとしても、自分のデータが誰か腕や足をなくした人の役に立つのなら嬉しいので、喜んで協力したいところなのだが、一つ困っていることがある。チョッパーの興味津々な問いだ。
「どうしてワームの支配から逃れられたんだ?」
 どうして、といわれても、答えは一つしかない。一つしかないのだが、口にするには恥ずかしすぎる。曖昧にごまかしてはいるのだが、この分ではいつか白状させられそうで非常に嫌だ。
 そもそも実はまだ肝心のゾロとも話をしていないのだ。どうやらチョッパーと二人して妙な具合に気を回しているらしく、一度も顔を見せに来ない。ナミなどはその薄情っぷりに腹を立てている様子だったが、サンジが苦笑しながら「たぶん気を使ってるんだよ」と言うと渋々ながら納得したらしかった。
 実際、サンジはゾロが見舞いに来ないことなどいちいち気に病んではいない。
 目を閉じて、ゾロという言葉をまっさらな脳に思い浮かべてみる。すると、ゾロに関わるありとあらゆる記憶が、映画のように綺麗に頭の中を流れていく。
 文字通り命をかけてサンジをワームの意識から引き揚げてくれた。彼はきちんとサンジの言葉を受け止めてくれたのだ。
 それだけでいいのだと思う。それだけで十分だ。

 病院の屋上から景色を見下ろしながら、ゆっくりと煙草をくゆらす。日が傾きはじめていて、町の景色は薄赤く染まっている。精神を病んだ患者が飛び降りる危険を防止するために本来立ち入り禁止のはずの屋上だが、実は非常階段があるのも確認済みだった。とはいえ頑丈なフェンスはサンジの頭の上まである。いささか無粋な気もしたが、贅沢は言うまい。
 チョッパーのいない隙を見計らってこっそり病室から抜け出してきた。確かに今の自分は本調子ではないが、いい加減過保護にすぎる扱いに少々うんざりしてきていたためだ。気分転換も必要だともっともらしく考える。もちろん、長居するつもりはない。少し外の風を吸うだけで、チョッパーに見つかって大目玉を食らう前にさっさと病室に戻るつもりだった。
 が、それはどうやらできないらしい。背後に感じる気配と、それが呼び起こす目が回るほど膨大な記憶の渦に少しばかりため息をついた。
 どうしてまた、ここでお前に出くわすかね。
 これも運命とやらの悪戯だろうか。それとも奴の野生の感覚ゆえか。
 まあ、いずれきちんと話をしないといけなかったしな、とサンジは腹をくくった。多少心の準備が足りない気もするが、そんなのはもう仕方がない。
 振り返るのも癪なので、フェンスの外を向いたままで。
 わざと平然とした声を作った。


###########


「よう、クソマリモ」
 余りにも自然に彼がそう言うので、出鼻をくじかれてしまった。
「・・・病人が勝手にこんなとこで煙草吸ってていいのか」
「いいわけねえだろ」
「・・・わかってんなら戻れよ」
「退屈なんだよ」
 こちらを見もせずに軽口をたたいてくる。彼の視線はフェンスの向こう、日の傾きはじめた街並みに向けられていた。逆光で表情はうまく読めない。
 いつも少々大げさなくらいにきっちりと着こんでいる彼が、こんなふうに薄青い入院服を着崩しているのはなんだか奇妙に思えた。もっとも、とゾロは思う。あの時自我を失っていた彼は引きちぎれた拘束服を纏っていて今よりよほど奇妙な恰好をしていたはずなのに、それほど違和感を覚えなかった。そんな余裕はなかったのだともいえる。
 言葉を探しながら尋ねた。
「てめえの状態は元に戻っちゃいねえんだろうが。俺といて大丈夫なのか」
「あんまり大丈夫じゃねえな」
 彼がそう言いながら楽しげに笑うので、ゾロはいささかむっとした。
「・・・そう思ってんならとっとと戻れ。そうすりゃ俺も消えるしちょうどいい」
「んだよ。心配してんのか」
「・・・そうだっつったらどうする」
 彼が驚いたようにこちらを向いた。
「素直じゃねえか」
「俺にだって病人を気遣う心くらいある」
 ふうん?とどこか寂しげに笑って、彼の手が煙草を揉み消した。
「チョッパーになんか言われたか?」
「あー、まあ。よくわかんなかったが、刺激するなとか何とか。記憶をいっぺんに思い出したせいで副作用が出てるとしか聞いてねえ」
「まあ、説明できるようなもんじゃねえしな・・・」
 彼は少し考えていたが、ふと思いついたように顔を上げたて、ちょっとこれ見てみな、と彼が手に持っていたらしい小さな文庫本を投げてきた。
「・・・何だ、これ」
「昔読んだ本だ。十二の頃に。読んだこと自体忘れてたんだが、ナミさんが持ってたから思い出した」
「それがどうした」
「好きなページを開けて、ページ番号を言ってみろ」
「・・・はあ?」
「いいから」
 訝しく思いながらも、適当にページをめくってその番号を言う。すると、彼はちょっと笑って、そのページに書かれた文章を諳んじ始めた。
「ちょっ、・・・と待て」
「いいから聞いてろ」
 一ページ丸々諳んじてみせて、彼は「偶然じゃない証拠に、他のページも試してみるか?」と言う。黙ってまた適当にページをめくり、番号を読み上げると、彼はまた一言一句正確にそのページを諳んじてみせた。
「お、・・・っ前」
「脳ってのはほんとにすげえよ、てめえも覚えとけ。見たこと自体忘れてたような景色や、聞いたこと自体忘れてたような言葉なんかもさ、実は忘れてんじゃなくて記憶の底に沈めてるだけなんだ。とんでもない容量を持ったパソコンみてえなもんだ」
 絶句しているゾロの顔が面白いのか、からからと明るく笑いながら彼は言った。
「読むってことは、当然だが見たことがあるってことだからな。この本のことを考えると、ページをめくってるときの映像が動画みてえになってずらーっと頭に浮かぶんだ。本自体の記憶だけじゃなく、読んでた時の情景とか、買った店のこととか、そういうどうでもいいことも一気に出てくる」
 当然だが、この本じゃなくても読んだことがある本ならできるぜ?と彼が胸を張った。だがゾロはその笑顔を額面通りに取ることは到底出来なかった。表情が強張るのが分かる。
「・・・てめえ」
 大丈夫なのか、と慎重に聞くと、彼はまた明るく「何を心配してんだか」と笑った。
「なあゾロ、人間の目は左右二つあるのに、どうして見える映像は一つなのか疑問に思ったことはねえか?」
「はあ?」
 唐突すぎる話題の転換に呆れて「何だそりゃ」と言う。彼は構わずに続けた。
「それはな、右目から送られてくる映像と左目から送られてくる映像を、脳が分析してうまいこと統合しているからなんだってさ。要するに、本当は目には二種類の映像が映ってんだが、人間の脳はそれをうまいこと一つの映像として処理してんだよ」
 すげえよなあ、と彼は笑って、自分の頭を人差し指でつついて見せた。何の話だ、と思わないでもなかったが、何故か無視できずに「そうか」と相槌を打つ。
「それだけじゃねえぜ。本来、目が脳に送る映像は倒立像なんだ」
「倒立像・・・ってえと、逆さまってことか?」
「ああそうだ。知ってたか?」
「・・・いや」
 知らなかったので素直に答える。
 でもそれはおかしいだろ、だって俺は今ちゃんと地面が下に、空が上に見えてるぞ。そう聞くと、彼は確かにおかしいよな、と笑って「どうしてだと思う?」と聞いてきた。
「・・・脳が上手いこと処理してる・・・ってことなのか?」
「そーだよ。どうしてそれができるんだと思う?」
「・・・俺に分かるかよ」
「慣れるからだってさ」
「はあ?」
 サンジがゆっくりと体を反転させ、フェンスに背を持たせかける。煙を吐き出しながら、真剣にこちらを見つめてきた。
「すぐに慣れるんだってさ。んで、ちゃんと正しく見えるようになる」
「・・・そんな、慣れるようなもんなのか」
「らしいぜ。昔、どっかの偉い科学者さんが、映像が上下逆さまに目に映るようになる特殊な眼鏡を開発して、それを何人かに掛けて生活してもらったんだと。そうしたら、大体一週間くらいで、慣れてちゃんと上下正しく見えるようになったらしい。ガキの頃客に聞いた」
「それは・・・」
 言葉が見つからない。サンジは笑いながら「怖い話だよな」と言った。
「それだけの異常を抱えてても、人間の脳は簡単に慣れちまえるらしいぜ」
「・・・」
「だから、心配すんな。どうせ、俺のこの状態にもすぐに慣れる。・・・慣れて、元通りになるさ」
「・・・てめえ」
 彼が言外ににじませた意味に感づかないほど馬鹿でもないが、言うべき言葉が見つからない。結局何も言えずに口を閉じると、サンジは痛みをこらえるような表情で俯いた。

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