21.

 嘘寒いほどに静止した一瞬が過ぎる。わざとらしいほど別れに相応しい情景だ。夕日に薄れゆく街並み、誰も入ってこない二人きりの屋上、静まりかえった周囲と空寒い風の音。
 静寂の中、サンジが呟いた。
「俺がどうして戻ってこられたのか、知りたいか」
 返事はしない。それはてめえが決めろ、と無言のうちに促した。彼はその意図を正しく汲んだらしく、目を閉じた。しばらくして歌うように語りだした口調に、ぞくりと背筋が強張る。
「手に入れた体は強靭だ、役に立つ。今までよりもずっと役に立つだろう。どこか違和感がある。体にまだうまくなじめていない。体の主の抵抗は感じない。今までよりもずっと楽だ。なじもう。体を動かさなくてはならない。上手く動けないことに気付く。邪魔なものが肉体を縛りつけている。邪魔だから千切る。視界に大きな生き物が映る。邪魔をしようとしているのがわかる。倒さねばならない」
「てめえ・・」
「たぶん、無くした細胞が脳だったのがまずかったんだろうな、やっぱり。違和感も感じなかった。ほとんど完全に取り込まれて、〈俺〉って概念もなくなってた。ただ、〈自分〉と獲物がいるだけさ」
「・・・・・・」
「それだけ完全に取り込まれてたのにだ」
 一つ息をついて、彼が目を開けた。蒼い片目がゾロを捉えて、見据える。
「てめえの声が俺の名前を呼ぶはずがねえと、覚えていた」
「・・・・・・!」
 彼の手が、ゾロの頬に伸ばされた。
「それが名前だということも知らなかったのに、てめえの声がその言葉を言った時、はっきり〈チガウ〉と思った」
 衝動のままに、延ばされた手を思い切り引き寄せた。間近で彼の瞳を見つめる。ほとんど同じ視線の高さだ。
「何もかも忘れてた時、ノートを読んでてめえとの関係を知った」
「・・・・・・」
「信じられなかったが、同時にどこかで納得もした。だから、強引に押し倒されたとき、どこかで諦めて抵抗を止めた」
「・・・・・・」
「てめえに抱いてた感情もすっかり忘れてたのに」
 もう一度好きになった。
 かすれた、小さな声で、彼は確かにそう言った。そして、口を開きかけたゾロを制して続ける。
「今でも、目を閉じれば何もかも忘れてた時の感覚を思い出せる」
 あの時は解らなかったが、と彼は呟いて、
「意外とアテになんねえもんなんだな、感情ってのは」
 と、レモンパイを持ってきたときとまったく同じ口調で言って笑った。
 反射的に、駄目だ、と思った。
 ゾロには分かっていた。彼がゾロに「愛してるぜ」と書き残したのを知ったとき、痛みとともに悟ったことだ。恐らく彼が記憶を失った頃から少しずつ始まっていた。
 終わらせるつもりなのだ。終わらせるつもりだから、ずっと避けてきた言葉をゾロに告げて、何もかも壊そうとしている。
「・・・このアホ!」
 たまらなくなって、彼の細い体を力いっぱい抱きしめた。
 今はもうゾロにも分かる。彼はずっと、ゾロが彼を愛したりしないように必死に予防線を張ってきたのだ。何でもないようなふりをして、体だけだと思わせて、負担にならないように。いつかゾロが誰か別の人と出会って、その人を愛することができるように。その日が来たら、ゾロが躊躇なくサンジのもとを離れられるように。
 俺はいったいこの男の何を見てきたのだろう、とゾロは唇を噛んだ。あんな残酷な始まり方をして、サンジがゾロの想いを察することなどできるはずもない。ゾロが彼を求めるたび、どんな想いで受け入れていたのだろう。どんな想いで挑発し、めちゃくちゃに犯せと促したのだろう。
 そして、それらすべてを、今どんな思いで思い出しているのだろう。
「・・・いてえよ」
 耳元に彼の声がする。かすれて低いその声にあまりにも純粋な慈しみと愛を聞き分けて、ゾロは泣きたくなるほど辛い気持ちで少しだけ腕を緩めた。
 言うべきことを言ったサンジは、ゾロに体を預けながら小さく一つ息を漏らした。これで終わりだと静かに思う。ゾロは、自分に恋愛感情を向けている相手の体だけを喰えるような男じゃない。だから、もうこうして彼に触れることも、彼に触れられることも最後だと思った。
 ゾロと向き合うことは、やはり今のサンジにとっては大変な負担だった。否が応でも流れ込んでくる大量の情報に目が回りそうになる。今のゾロの上に、これまで見てきた様々なゾロの姿が重なって見える。思い入れが深い分、記憶に占める容量も大きい。よって負担も大きくなる。それでも、この場から離れたいとは思えなかった。
 痛い、と言うとすぐに腕の力を緩めてくれる彼をいとおしく思う。ゆっくりと体を離して、そっと緑の頭に手を載せて撫でた。
「ごめんな」
 この先長い航海で、俺の感情が、お前にとって負担にならないことを祈る。いつかはきっとこの痛みにも、どうしようもない喪失感にも慣れる日が来るのだろうけれど、それまでは許してくれ。
 そう呟くと、ゾロの表情が辛そうに歪んだ。
「・・・このアホが」
「ごめ・・・・・・っ!?」
 唇を塞がれて、呼吸が止まった。
「おっ・・・・・・前、何っ・・・・!」
「黙ってろ」
 食われ、奪われ、貪られるキス。サンジは呆然と立ち尽くしたままひどく乱暴な口づけを受けていた。記憶の無かった時、サンジから口づけた。二度目はゾロから。三度目もその延長でゾロからだった。だが、そのどれもこんな乱暴さを伴ってはいなかった。あれは、互いを思いやりながら触れあったどこか神聖な口づけだった。何もかも忘れていたからこそできた、サンジのつたない告白だった。
 だから、こんなキスは知らない。こんな、何もかも奪い去るような深く荒っぽいキスは知らない。
「う・・・・・・・あっ・・・は・・・」
 やめろ何をする、とゾロの背を叩く。
「ど・・・うじょう・・・なら、要らねえ・・・よっ」
 荒い呼吸の下から懸命に言葉を紡ぎだすと、ゾロが物凄い力でサンジの肩を押した。引きはがされたのだと気づくより先に、両肩を掴まれて顔を上げさせられた。
「クソコック、よく聞け」
「何・・・・・・っ」
 真剣な彼の顔にうっかり魅入られる。すげなく切ってやるつもりだったのに、それもできなくなった。口下手な剣士は懸命に言葉を探しながら、サンジを燃えるような瞳で見つめてくる。
「・・・ずっと、てめえが俺のことを好きになるはずがねえと思ってた」
「・・・それは、」
「あんな始まり方をして、てめえが俺を憎まないだけでも僥倖だと知っているべきだったのに、てめえが拒まねえから・・・調子に乗った」
 サンジは唖然として立ちつくした。掴まれている両肩からゾロの体温を感じてぞくりとする。おぼつかない浮遊感を感じながら、サンジは慎重に尋ねた。
「・・・ゾロ。それは・・・」
 その言葉が行き着く先は、一つしかない。信じられない気持ちが先に立ったが、この男がこんな真剣な顔で嘘をつけるような人間ではないということも、サンジは知っていた。
 ゾロは必死に続ける。
「俺の感情も聞かねえで何もかも終わらせようとすんな、クソコック」
 いつも一人で何もかも背負いやがって。他人を満たすためになら命だってかけるくせに、自分のことになると途端に自虐的になる。勝手に一人で抱え込んで、勝手に一人で何もかも決めて。あの紙切れに残された言葉がてめえの別れの挨拶だと、俺に分からないとでも思ったのか?言ってしまえば俺が身を引くだろうと考えたんだろう。俺がてめえを殺してやれるかどうか試そうとしたのか?
 どうしててめえはそんな簡単に何もかも諦めてしまえるんだ。卑しく穢れたふりをして、最低な嘘をついて。ずっと気づけずにいたゾロはどれだけ馬鹿で無知だったのだろう。自分を殴れるものなら殴りつけてやりたい。
 どうしようもなく切ない気持がゾロを貫く。失われた時は取り戻せない。だから、せめて言うのが遅すぎた言葉をサンジに伝えようと思った。
 はっきりと断言する。
「好きだ。最初からずっと好きだった」
 目を見開くサンジをもう一度力いっぱい抱きしめて言う。
「俺でいいならくれてやる。だからもう、一人で何もかも抱えるな」

 頼むから。
 呟くように付け足した言葉を、サンジが聞き取れたのかどうかは知らない。ためらうように彼が俯いた。ぶっきらぼうに離せよ、と言われる。お断りだと言うとお前はガキかと幽かに笑われた。
「・・・いてえって」
「観念しろ」
「腕緩めろよ」
「嫌だね」
「キスできねえだろうが」
「ああ・・・って、あ!?」
 焦って思わず腕を緩めてしまった。サンジは小さく笑うと、自由になった手でゾロの頬をはさみ、引き寄せながら優しく目じりにキスを落とす。額、両のまぶた、鼻の上、目の下と順番に口づけて、最後にそれはゾロの唇に落ちた。
 受け入れられたのだ、と思った。
 とたんに込み上げる熱い想いは歓喜のそれだろうか。
「・・・遠回りしたな」
 俺が馬鹿だったせいで。
 そう言って、ゾロはサンジの頬にそっと分厚い手を添える。めまいのするような“ゾロ”の気配にふらつく足を懸命に支えながら、サンジはその手に自分の手を重ね、小さな頬をすりよせた。たったそれだけのことで驚いたようにぴくりと反応し、感動の表情になる不器用な剣士にあーあと大きくため息をつく。
 一度記憶を失うことで、ゾロとのすべてが白紙に戻った。なにも経験していない、どんな観念も抱かない状態だったからこそ、ただゾロに手を伸ばすことを選べたのだ。記憶を失う前のサンジだったら、きっと素直に向き合うことなどできなかっただろう。意地を張って何も言えないままワームに呑まれていたかもしれない。終わらせようと決意してゾロに本当の感情を伝えることも、ゾロの本当の感情を聞き出すこともきっとなかったのだと思う。
 全てを白紙に戻すことでやっと素直になれた自分は相当の意地っ張りなのだろう。でも、同じくらい意地っ張りで不器用で馬鹿なこの男にしてみればお互い様だ。
「・・・クソ、このアホコックが」
 全くもって状況にふさわしくない悪態をつく剣士に、「何だ?」と聞いてやる。
「てめえのせいで、おれはめちゃくちゃだ。てめえを知らなけりゃ、誰かを欲しいと思ってみっともなくあがくことも、そいつの言葉や態度一つで一喜一憂することもなかったんだ」
 呻くように告げられる言葉に息を呑む。
 それがどれだけ重い意味を持つ告白なのか、ゾロはきっと知るまい。白紙だったのはゾロも同じだとサンジは悟った。たがが外れたような激しい独占欲やどうにもならない恋情を彼に教えて気づかせたのは、サンジなのだと。
 悪態をつかれているはずなのに、胸が詰まった。これまで愛してきたどんなレディにも、これほど激しくまっすぐな愛の言葉を告げられたことはない。
「離さねえからな」
 俺をこんなにしやがって、逃げたりしたら許さねえ。
 ほとんど脅しのような口調に、必死な彼の思いが透けて見える。答えを口にする代わりに、ゾロの頭に手を回した。緑の髪を胸元に掻き抱いて、そっと囁く。
「俺はとっくに言っただろ?」
「もう一度聞かせろ」
「・・・ったく、我儘だな」
 にやりと笑って、彼の右の耳朶にキスをする。三つのピアスに順番に口づけて、「もう二度と言わねえからな、覚悟して聞いとけ」と囁いた。
「愛してるぜ」
「・・・・・・!」
 折り重なるように押し倒されながら、一瞬だけ見えたゾロの金の瞳が。サンジだけを映して歓喜に輝いていたさまのことは、きっと一生忘れられないだろう。

End.

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