19.

 目が覚めて、驚いた。
 ここはどこだ、と一瞬考えて、ああメリー号だと思いつく。よく知った場所、よく知った台所だ。
 どうやら自分はキッチンの椅子に座ってレシピノートを書いていたらしい。まだ感覚がはっきりしていない。どうやら書き物をしながら眠ってしまっていたようで、眼鏡をかけたままだ。強張る肩をほぐしながら体を起こす。突っ伏して眠っていたせいか、腕に赤い痕ができていた。この分では額も赤くなってしまっているだろう。あーあ、とため息をついて起きあがった。
 ノート。薄い茶色のノート。おや、と既視感が沸き上がってきた。間違いなく知らないノートだ。だが、何故か覚えがある。昔これをどこかで見た。どこで使ったのだったか。
 うーん、と考え込む。忘れてしまったという気はしない。記憶は脳のどこかにしまいこまれていて、ただそれを引きずりだす手順を忘れてしまっているだけだ、という気がした。糸を手繰るようにして記憶の結び目を引き寄せると、しだいに滑らかに答えはサンジの中に浮かび上がってきた。
 そうだ、これは、バラティエから持ち出してきたレシピノートを使い切ってしまった時、初めて買った新しいノートだ。立ちよった小さな島で、気にいるものを探して何軒も店を捜し歩いた。その時はまだビビちゃんがいて、チョッパーが乗り込んで間もない頃だった。仲間に入ったばかりのチョッパーは、こう言っては何だがとても可愛らしくて女性陣がよく抱きぐるみにして遊んでいたっけ。
 好みのノートを見つけて興奮して、何冊も買い込んで泊まっていた宿へ持ち込んだ。ちょっと古風な石造りのホテルで、時代を経て黒光りする壁の石にナミさんが「ロマンティックねぇ」と微笑んでいた。部屋は三部屋取った。どれも同じつくりの部屋で、居間が一つにバスルームが一つあった。居間にはでーんと二つベッドが置いてあって、あとはクローゼットとソファ、テーブルと冷蔵庫。テーブルの上には重厚な造りの三面鏡が置いてあった。クローゼットを探ると、何でかバスローブが入っていた。その時はウソップとゾロが同室で、見慣れないお互いのバスローブ姿に大笑いしながらベッドの取り合いをした。
 あの頃のナミさんのお気に入りは、目が覚めるようなオレンジ色のワンピースだった。髪の色によく似合っていて素敵だと言うと、ありがとう、私もそう思うわと笑ってくれた。てめえはナルシストかとナミさんに向かって嘯くクソ剣士を蹴りつけると、例によって大喧嘩になった。それをビビちゃんが呆れたように眺めていたっけ。
 キッチンの戸棚はまだ小さくて、増えたメンバーの食器を納めるスペースに四苦八苦していた。駄目元でウソップに頼んでみたら快く新しい戸棚を作ってくれて、嬉しかった。怖い夢にうなされて眠れないのだというチョッパーと一緒に眠って、彼を育ててくれたという人の話を沢山聞かせてもらった。対ルフィ用の特大ネズミ取りが古くなってしまったから、島に下りた時に修理に出した。ウソップに頼んだらルフィと協力して盗み食いに有効活用されそうな気がしたから。
 サンジは、自分の中に溢れる大量の情報の洪水に動揺して息を呑んだ。このノートにまつわる大きな記憶や小さな記憶、どうでもいいことやたいせつなことが全て一気に噴き出して、わけのわからない大渦を作っている。買ったばかりのノートに何をかこうかといろいろ考えていた。同時に、使い切りかけて新しい奴を買わなければなと考えていた。新しいレシピを書き込んでいて、そのレシピを見ながら料理してもいた。そのすべてがサンジだった。全てがサンジの記憶で、サンジの経験してきた時間の欠片だった。
 着たままのエプロンを見下ろす。ナミさんが買ってくれたものだ。前のエプロンがいい加減汚れて古びてしまっているから、プレゼントだと言って。そのうち自分で買うつもりだったから驚いたけれど、嬉しかった。ナミさんが買ってくれたものだから絶対汚さないと言ったら、何のためのエプロンなのよと笑われた。前の奴は小さく切って台拭きにしようとしたら、チョッパーとウソップが「もったいない」といってぶんどっていった。何に使われたことやら今でも分からない。気合を入れて洗い物をしていたら、最中に敵襲があって怒り狂った。その時紐を切られてしまって、泣く泣く自ら繕った。裁縫箱なんて繊細な代物をウソップが持っていたことに大笑いした。結構センスのあるつくりで、どこで買ったのか問い詰めたら故郷の幼馴染のプレゼントだという。お前もやるなと笑ったら怒られて、さらに大笑いした。
 情報が押し寄せてくる。サンジが選ぶことはできない。記憶の方が勝手に出てくるのだ。
 ああ、人間の脳というのは一度経験したことを決して忘れないと言うけれど、本当だな、と思った。見たもの経験したことすべてが、こんな些細なきっかけで映画なんかよりもよほど鮮明に浮かび上がってくる。ふだんは、覚えていてはつらくてたまらないこと、覚えている必要もないことを記憶の底に沈めて生きているから分からないだけで。
 もう、そんなことはしない。何もかも思い出したから。
 周囲を見回して微笑む。ここは居心地のいい世界だ。サンジを脅かすものは何もない、自分ひとりだけの世界。ずっとここにいても、あるいは幸せなのかもしれない。
 だが、とても大切なものがここにはない。
 知らないふりをして記憶の底に埋めても、この脳は忘れない。仲間たちの笑顔を。自分の料理を美味しいと褒めてくれる声を。顔を見合わせるたびに喧嘩になる、あの忌々しい剣士のことを。
 ちゃんと分かっていたのだ。見て見ぬふりをしていたあらゆることも、忘れずにここにあった。抱いていた切実な感情も、ぎりぎりのところで均衡を保っていた言葉も、何もかもここに。
 だから、そろそろ時間切れだ。
「さあ、目を覚まそうぜ」
 小さく呟いた。

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