10.

 翌日、ゾロはどうにも寝付けないというあり得ない事態に悩まされていた。
 と言うよりも、悩み事があるために寝付けずにいる、と言った方がより正しいのかもしれない。
 昨日のあいつは、やはり絶対にどこかおかしかった。一月ぶりで体が緊張していたためだと断定しても構わないのかもしれないが、何故かどうしても引っかかる。それに、結局ゾロを避けていた理由も言わなかった。半ば怒りに任せて強引に抱いたのに皮肉の一つも言わず、拒絶もせず、代わりに絶望的なまなざしでゾロを見上げてきた。
 行為の後、立ち去るべきではなかったのかもしれない。彼が目覚めるまで待って、もっと問いただすべきだったのかもしれない。だが、目覚めたときに傍にいれば、彼はきっと激しい嫌悪感を示すだろうと思うと立ち去るしかなかった。
 僅かでも気遣うようなしぐさをゾロが示すと、彼はいつもそれを拒絶する。「そういうのは好きなレディにでもしてやりな」と言って。だからゾロは何もできない。せいぜい、彼の手首を戒めたネクタイを切ってやることくらいしか。自分で解くことはできないのだから切ってやらなくてはならないのだと、これは気づかいではなく当然のことだとサンジと自分に言い訳をしながら。
「・・・よう、クソマリモ」
 上から声が降ってきた。
 驚いて見上げると、おやつらしき菓子の載った盆を持ったサンジがゾロを見下ろしていた。
「て・・・めぇ」
「食わねえの?」
 さっさと食わねえとルフィが来るぞ。そうぶっきらぼうに言う彼の姿を、信じられない思いで見つめる。ここひと月ほど、おやつをゾロのもとに届けるのはチョッパーの役割だった。サンジは忙しいんだとためらいがちに言うトナカイに、苛立ちながらも何も言えずにいたのに。
「おい、クソマリモ」
 サンジが目の前に腰を下ろす。驚いて固まっているゾロに盆を差し出してきた。
「てめえで最後だっつってんだよ。ったく、いつもいつも食事の時間を守りやしねえ」
 食えよ。乱暴に促されて、戸惑いながらも菓子を手に取る。どうやらレモンパイであるらしかった。甘すぎずしつこすぎず、レモンの酸味が上手に生かされたパイ。
「・・・美味えな」
 思わず素直な感想が漏れた。
「ったりめえだ」
 無愛想な、けれどどこか笑みを含んだ声が答える。
「俺が作ったんだからな」
「・・・そうか」
 小さく答えて、パイの最後の欠片を口に押し込む。ところがサンジはその場を動こうとしない。用事は済んだはずなのに動かない彼に、ゾロも何も言えずにいる。
 そのまま、数分の時が流れる。
 先に沈黙を破ったのはサンジの方だった。
「・・・あのな、ゾロ」
 ふさわしい言葉を探しながらの、ゆっくりとした口調。

「・・・何だ」
「・・・悪かったな。逃げてて」
「!!?」
 直球を投げかけられて唖然とする。
「・・・てめえ、」
「もう、自分でも何考えてたのか覚えてねえんだけどよ」
「・・・それは」
「意外とアテになんねえもんなんだな、感情ってのは」
「・・・・・・・」
「昨日は結局何も考えられなかったがな、今にして思えばそういうことだ」
 彼が何を言いたいのかつかめない。
「おい、解るように説明しやがれ」
「・・・面倒くせえなあ」
「おい」
 少々怒気を込めると、彼は何故か楽しそうに笑った。
「要するにな、今の俺は、てめえのことを、少なくとも嫌いじゃねえってことだ」
「・・・・・・は?」
 わけがわからない。普段あれだけ嫌いだ気色悪い近寄るなと言っておきながら、何言ってやがるこのアホコックは?
「勘違いするなよ。あくまで今の俺は、だ。今までのことは知らねえし、知ろうとも思わねえ」
「・・・てめえ何言ってやがる」
「そのまんまだよ」
 てめえに理解力は期待しねえよ、分かってほしいとも思わねえ、と楽しげに彼は笑った。
「・・・わけわかんねえ」
「俺は憶病すぎたんだ」
「・・・・・・」
「目をそらしたところで、汗臭いマリモ野郎がどっかに消えてくれるわけでもねえし」
「・・・おい」
「どうせいつかしっぺ返し喰らうんだ、今の俺みてえに」
「てめえ、だからわかんねえって」
「うるせえ黙れ、理解は求めてねえって言ってんだろ」
 人の話を聞きやがれ。
 そう笑う蒼い目の中には、昨日の絶望的な色ではなく、不思議な温かみが宿っていた。思わず気おされてはっとした。人の話を聞かねえのはてめえじゃねえのかとか、説明しろよ、わかんねえって言ってんだろとか。言いたいことは山ほどあるはずなのに、呑まれてしまった。彼の目があまりに真剣にゾロの目を見つめていたから。
 本気でゾロと向き合おうとしているのだと、嫌でも解らざるを得なかったからだ。
「なあゾロ」
「・・・何だ」
「今まで、俺からてめえを誘ったことってあったか?」
「・・・・ああ!?」
 本気で驚いて声を上げる。
 セックスするのはあくまでゾロが欲を満たすのに付き合っているだけであり、それ以上でも以下でもないと繰り返し強調していたのはどこの誰だ、と言いたいのを必死でこらえる。
 ゾロが誘う言葉を見つけられないでいるときに先に声をかけてくれることはあっても、それはあくまでゾロの欲を先回りして言い当ててくれているだけだと、彼自身がゾロを欲しているわけではないのだとあれほど念を押していたくせに。
 何を今更。
「ねえんだな」
 ゾロの表情で答えを察したらしく、彼が先回りして言った。
「・・・ったり前だろ、何を今更・・・」
「じゃあ、今誘うぜ。ゾロ」
 はあ?
 わけがわからずに瞬きをしていると、彼はゆっくりと、何かを確かめるかのように続けた。
「今日の夜。船番は俺だ。覚えてるよな?」
「・・・覚えて、いるが」
「俺は寝ないで起きてる。見張り台には行かねえ。キッチンに一人でいる」
「・・・・・・」
「流石にここまで言われてわかんねえほど馬鹿じゃねえだろ?」
 にやり、と挑発的に彼が笑う。
「てめえ・・・、」
「俺が、てめえとしてえんだ。そう言われて不服か?」
「いや・・・そうじゃねえが」
「じゃあ来いよ」
 待ってるぜ、と。
 微笑む彼に唖然としていると、繊細な手がゾロの頭に伸ばされて。
 ほんのわずか。瞬くほどの短い間、彼の手がゾロの頭に触れてそっと撫でた、ような気がした。もしかしたらこれは都合のいい夢なのではないかと。そう疑ってしまいたくなるほど、温かな手。
「忘れんなよ」
 そう囁かれた、ような気がした。
 気がつくと座っているのはゾロ一人で、彼の姿はどこにもなかった。

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