魔女に翻弄される夜
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普段通り、始業20分前に出社したオフィス。
己のデスクにビジネスバッグを置こうとして、貼り付けられた橙色の付箋に目を留めた。
何かしらの業務連絡だろうかと、記された文字を追う。

「…………は?」

しかしそこに書かれていた一文は、何をどのように見ても業務に関わる類ではなかった。
そもそも俺の当然の認識に反して、日本語でさえなかった。


Trick or Treat ?


無意識に視線を向けた、卓上カレンダー。
なるほど確かに今日は10月31日、世間ではハロウィンと呼ばれる日ではある。
しかし現代日本において、幼い子どもならまだしも、決していい年の大人が興じる行事ではないはずだ。
一瞬総司の悪戯かとも思ったが、恐らく奴ならばこのような回りくどいやり方などせず直接菓子を要求してくるだろう。
それ以外、俺にこのような悪戯を仕掛ける人間など思い付かぬ。
恐らくは、女性社員同士の戯れか何かだろう。
その付箋を間違えて俺のデスクに貼り付けてしまった、と。
そのようなところだろう。
そう判断し、俺はデスクから剥がした付箋を丸めて足下のダストボックスに放り込んだ。

それ以降終業時間まで、俺の脳裏にハロウィンの存在が過ることはなかった。

………のだが。


「…………は?」

いつものバーで会おう。
今日は出先から直帰だから、先に行って待ってるね。

という彼女からのメールに従って訪れた、馴染みのバー。
木製のドアに掛けられた"貸切ハロウィンパーティ"のプレートに、首を傾げた。
誰かが、パーティをしているのだろうか。
しかし彼女は、ここで待っていると言っていた。
彼女も、貸切パーティのことを知らなかったのだろうか。
いや、だがそれならば、先に着いた時点で店を変更する連絡があるのではないか。

考えても分からぬので、とりあえず入ってみることにした。
これで彼女がいなければ、謝罪して立ち去ればよいだけだ。

ドアをゆっくりと押し開ける。
そして、視界に飛び込んできた光景に息を呑んで硬直した。

店内には馴染みのマスターと、スツールに腰掛けて脚を組み、俺の方を振り向いた一人の女性がいた。
一瞬、知らない人だと思った。
それほどまでに、まるで別人のような姿だったのだ。
一拍置いてから、それが彼女だと気付いた。

恐らくは、ハロウィンの仮装という名目の元に、魔女を意識したコスチュームなのだろう。
しかし魔女らしいのは、頭の上に斜めに乗せられた黒い三角帽子だけだった。
彼女が纏うノースリーブの黒いショートドレスは胸元が大きく開き、白い膨らみが見えそうで見えないというギリギリのラインを縁取っている。
身体の線にぴたりとフィットするデザインの所為で胸の大きさと、それに反して括れたウエストがそれぞれ強調されていた。
ドレスの裾はフレアスカートのように広がっているのだが如何せん丈が短すぎる故に、太腿部分が殆ど剥き出しの状態である。
その美しい脚線は黒の薄いストッキングに覆われ、むしろ素肌よりも艶かしい。
足先を飾る黒いエナメルのパンプスが、誘い込むようにピンヒールを揺らした。

「………ナマエ?」

恐る恐る名前を呼ぶと、彼女は黒のロンググローブに包まれた指先に挟んでいた煙草を唇に咥えた。
真っ黒な衣装の中で唯一、赤く染まった唇に視線を奪われる。
誘われるように一歩近付けば、常とは異なる妖艶な匂いを感じた気がした。

「お菓子、持って来てくれた?」

下ろされた長い髪が、彼女の動きに合わせて波打つ。

「……菓子?」
「あれ?メモ見てないの?」

意味が分からず問い返した俺に、再び投げられた質問。
その言葉にようやく、思い当たる節。

「あれは…、あんただったのか…!」

朝、デスクの上に貼られていた付箋。
Trick or Treat ?
てっきり誰かが間違えたのだと思っていたあの悪戯は、彼女の仕業だったということか。

「あーあ。その様子じゃお菓子はなさそうね?」

名前がなかったのだ、分かるはずがないだろう。
という俺の真っ当な反論は、不意に立ち上がった彼女の姿に見惚れた所為で、喉の奥に引っ掛かり止まった。

「Trick or Treat ? もちろん、意味は知ってるでしょう?」

菓子をくれなければ、悪戯をする。
ハロウィンの常套句である。

「それとも、知っててわざと、手ぶらで来た?」
「な……っ」

彼女がカウンターの上の灰皿に煙草を押し付け、俺の方へと近付いてくる。
常とは異なる姿に、視線のやり場すら分からなかった。
赤い唇も、大きく開かれた真っ白な胸元も、薄い生地一枚に覆われた太腿も。
どこを見ても、興奮以外に感じるものがないのだ。

「…ああ、そっか」

固まったまま動けぬ俺を他所に、彼女は一人勝手に話を進めていく。

「Trickをご所望なんじゃなくて、君自身がTreatだったね」

どういう意味だ、それは。
あんたはこのような所で、一体何をするつもりなのだ。

「じゃあ、遠慮なく。全部、食べてあげないとね?」

僅か、数センチの距離を残して。
彼女は俺の目の前で、真っ赤な唇を愉しげに吊り上げた。



その後に行われた行為については、正直もう二度と思い出したくない。
何より考えたくないのは、それを嫌だと思わず全て受け入れてしまった己の痴態である。

来年からは必ず。
この日には彼女の好きなビターのチョコレートを用意しよう、と。
俺は心に固く誓った。




魔女に翻弄される夜
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