重なる手から伝わる温度[1]
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原田にとって金曜日は、とりわけその夜は、一週間の中で最も楽しみにしている時間だった。


金曜日、18時30分。
場所は、オフィスから3駅離れた繁華街の一角。
大通りから一本裏に入った通りに、そのバーはあった。

「一週間お疲れさまっ!」

店内は薄暗く、だが隣に座した相手の表情を窺う分には差し支えない。
BGMは控えめに、会話を邪魔されることもない。
かといって、他の客の会話が気になるほど静かでもない。

「お疲れさん」

かちん、と重なるグラス。
氷が崩れる。

そんな雰囲気を気に入ってこのバーの常連となってから、早一年。
初老のマスターは無駄口を叩かない物静かな男で、しかしその柔和な雰囲気がそのまま店の色となっていた。

「やーっと企画も終わったし、来週からは少し楽になりそうね」

原田の隣でロックグラスを呷るのは。
3年前、同期で入社したナマエ。
年齢よりも若く見られる童顔に似合わず飲兵衛なのは、原田だけの秘密だったりする。

「全くだ。土方さんも、ありゃ人遣いが荒いな」

入社し同じ部署に配属になった時から、気になっていた。
もちろん、まずその愛らしい外見に惹かれたことは否定できない。
だがそれよりも、見掛けからは想像もしていなかったような芯の強さに心を奪われた。

あれは、入社から半年程が経った頃。
同じく同期で入社した雪村という女性社員のミスが、何の落ち度もなかったナマエの責任にされたことがあった。
原田はそれが誤解だと知っていた。
しかしナマエは一切反論せず、仲の良い友人にすら弁解をすることなく、真実を飲み込んで誠実に頭を下げた。
そして、雪村のミスによって生じたマイナスを見事に挽回して見せた。
その姿勢は、ただ腹の内で憤って実際には何も出来なかった原田に、大きな衝撃を与えた。
そして、そんなナマエを好きになった。

その頃からである。
毎週金曜日の仕事上がりは、二人で飲みに行くのが暗黙の了解となった。

「しょうがない。あの人は鬼だから」
「限度があると思わねえか、それ」

その習慣は、ナマエに彼氏が出来た時でさえ途絶えなかった。

一年程前、ナマエは同じ会社に勤める二年先輩の男と付き合った。
それを金曜日の夜に聞かされた原田は、それはもう酷いショックを受けたものだった。
ナマエとその男が付き合い始めたことに対する衝撃はもちろんのこと、原田は自らの思い上がりを知ってしまった。
原田はそれまで、ナマエもまた言葉にはしないが自分に気があるのではないかと思っていたのだ。
期待は見事に裏切られた。

「まあまあ。それよりも、聞いたよ左之。千鶴ちゃんに告白されたんだって?」
「…情報早いな、相変わらず」

今朝の出来事だぞ、と原田はぼやく。
そんは原田を尻目に、ナマエは悪戯っぽく笑った。

「女子社会は情報戦ですから」
「だから女は怖いんだよな」

原田は内心、大きく溜息を吐いた。

あの時のナマエは、正直その男にあまり心を傾けてはいなかった。
実際その男とナマエの交際は、そう長く続かなかった。
原田の記憶が正しければ、三ヶ月程度で別れたはずだ。
君は俺がいなくても生きていける。
それが、別れ際に男がナマエに告げた台詞だったらしい。
相変わらず金曜日の夜、ナマエはそう言って寂しそうに笑った。

俺ならそんなことは言わねえのに、と。
原田は思ったが、声にはならなかった。

ナマエに最も近い男は自分だと、原田は自負している。
だがそれは友情の先であって、決して恋情の先ではない。
悩みを話し合い、互いを曝け出し、これ以上ないほどの信頼を寄せている。
それなのに、その唇に触れることは疎か、抱きしめることさえ叶わない。

恋人というポジションに、どうしても立てない。

その証拠に、原田が告白されたと知ってもナマエの態度は相変わらずで、一切の動揺も見られない。
もしかしたらそれは、原田が否と答えたことを既に知っているからなのかもしれないが、それにしたってあっけらかんとしている。

「勿体ない。千鶴ちゃん、可愛いのに」
「…俺があいつ好きじゃねえの、お前知ってんだろ」

あの日、ナマエに被せられた濡れ衣に対し、見て見ぬ振りをした雪村。
あの時から原田は、雪村を快く思っていなかった。

「左之はほんと、私に甘いね」
「他に甘やかす奴がいねえからな」

人の気も知らないで、と原田は苦笑した。



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