唇の魔法[1]
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「いつまで不貞腐れているつもりだ」

その、不機嫌そうな声音に、ぐっと唇を噛んだ。


そりゃあね、千景にとっては取るに足らないどうでもいいことだったかもしれない。
仕方ないって、そう言われてしまえばお終いだ。
それも分かってる。
でも、私はすごくすごく、楽しみにしていたんだよ。

「仕事だと言っているのが分からんか」


夏休みに、旅行に行こう、と。
誘ってくれたのは千景だった。

当然私は一も二もなく頷いて、その日のうちに本屋で旅雑誌なんてものを買ってきた。
あそこに行きたい、あれが見たい、これが食べたい。
フルカラーのページを捲って、あれやこれやと旅先に思いを馳せた。
そんな私を見ていた千景は何も言わなかったけれど、最終的に私が提案した旅行のプランを聞いて、満足そうに頷いてくれた。

ホテルの予約をして、行きたいレストランにチェックをつけて。
着ていく服だって、千景の好きそうなワンピースを新しく買って。
準備は万端、だったのに。

「だって、」

先程会社から帰ってきた千景は、リビングのソファに座った私の隣で。
悪いが仕事になった、と。
何の躊躇もなくそう言った。
出発を明日の朝に控えた、夜のことだった。

「ホテルも、レストランも、全部、決めてたのに。荷造りも、出来てるのに」

我儘を言っている自覚はある。
仕事が大切だってことは、よく分かってる。
千景は、あの風間コーポレーションの社長なのだ。
どうしても彼じゃなきゃいけない事態があるのは当然だ。
そんなことは、分かってるけど。

「いつまで聞き分けのないことを言うつもりだ」

はあ、と疲れた溜息と共に。
千景が呆れた声を出す。

分かってる。
どこにでもありそうな企業でしがないOLなんてやっている私は、千景から見ればただのお子様みたいなものなんだ。
こんなことで我儘なんて言ったら困らせるだけだって、頭では理解している。

だけど。

「もう、千景なんて知らないもん」

どうしても、千景と行きたかった。
別に、高級なホテルじゃなくてもいいし、食事だってテイクアウトのデリでもいい。
ただ、千景の運転する車に乗って、二人だけで出掛けて、思い出を作る。
そんな休日を、過ごしてみたかっただけなのに。

仕事が重要なのは分かるけど。
そんな、さも当然みたいに一言で切って捨ててしまえるほど、千景にとって私との旅行はどうでもいいことだったのかなって。
そう思うと、浮かれていた私が馬鹿みたいで。

「強情な女だ」

やれやれ、と言わんばかりの口調に腹が立った。



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