響く、始まりの音[3]
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「おわ、った…」

結局、全ての作業が片付いたのは21時半を回った頃だった。
思わずそう呟いて、凝った首をぐるりと回した。
それからふと土方部長のデスクを窺うと、そこには誰もいなかった。

「あれ?」

しかし、デスクの上は散らかったままだし、相変わらず鞄も残っている。
お手洗いかどこかに行っているのかもしれない。
戻って来るまで、待っていた方がいいだろう。
今はあまり会いたくないが、流石に挨拶もなしに帰るのは憚られる。
私は帰り支度を整えたバッグをデスクに置いて、椅子に深く腰掛けた。

数分後。
土方部長がオフィスに戻ってきた。

「終わったか」
「はい」

戻ってきた土方部長は、先ほどまでよりも穏やかな表情をしていた。
何か良いことがあったのだろうか。
そんなことを考えていると、私の方に近寄って来た土方部長が、私に何かを差し出した。

「ほらよ」
「…え?」

受け取れば、それはミルクティーの缶だった。
この階の自販機コーナーに置いてある、私が良く飲むメーカーのものだ。

「お疲れさん」

土方部長はそう言って私の隣の子の椅子にどかっと座り、もう一つ持っていた缶のプルタブを上げた。
それは、土方部長がいつも飲んでいる缶コーヒーだ。
ということはこのミルクティーは、私に買って来てくれたのだろうか。

「あ、りがとうございます」

驚いた。
そして、それ以上に嬉しかった。
コーヒーを買いに行って自販機の前に立った時、私を思い出してくれたのだろうか。
そう思うと、頬が緩んだ。

「いただきます」

さっきまで、早く帰りたいと思っていたのが嘘のように。
思わぬ展開に気分は浮き立ち、プルタブを引く指は少し緊張して震えていた。

しばらく無言で、お互いに缶の中身を飲んでいた。
重さから察するに中身が半分ほどに減ったかと思われた頃、不意にそれまで黙っていた土方部長に声を掛けられた。

「昼間は、悪かったな」
「…え?」

あの、土方部長が、私に謝った。
そんなことは、初めてだった。
驚いたなんてものじゃない。
そして戸惑った。
だって、謝られる理由が全く何も思いつかなかったから。

「何のお話ですか?」

左隣の土方部長に向き直る。
すると土方部長はバツが悪そうに頭を掻いてから、ぼそりと呟くように言った。

「怒鳴っちまって、悪かった」

そう言われ、思い当たる節は一つだけ。

「な、んで。そんな、謝らないで下さいっ。謝るのは私です。本当に、ご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ありませんでした!」

缶をデスクに置いて、慌てて頭を下げれば。
その下げた頭の上に、何かが乗せられた。
それが土方部長の手だということに気付くまで、軽く数秒は掛かった。
そして理解した途端、顔に熱が集まった。
多分私は今、耳まで真っ赤だ。

「俺はな、知ってんだよ」

とてもじゃないが顔を上げることなど出来ない私の頭上に、土方部長の声が降ってくる。

「あのミスはお前じゃねえ。ちゃんと、分かってんだ」

息が、止まったかと思った。

どうして。
どうしてそれを。
私、何も言わなかったのに。

あの資料作成を指示された時、手の空いている奴は好きに使え、と土方部長は言った。
私はその言葉に甘えた。
計算やフォーマット作りは全て自分でやったが、最後にその数字を入力する作業を何人かに割り振った。
最後の1ページを任せたのは、雪村さんだった。
ついでにプリントもお願いした。
その結果が、あれである。

「お前は何も、ミスっちゃいねえよ」

その言葉と共に、私の頭の上にあった土方部長の手が、今度は私の顎の下に触れた。
そのまま、くい、と顎を持ち上げられる。
私はされるがままに顔を上げた。

そこには、苦笑いのような表情の土方部長がいた。

「いえ、そんな。最終確認をしなかった、私のミスです。ちゃんと最後に目を通していれば、気がつけたはずです」

確かにミスを指摘された時、そのページの入力をしたのは雪村さんだと分かっていた。
だが、悪いのは私だ。
仕上がったものを最後にチェックしていれば、おかしいと気付けたのに、その手間を惜しんでしまった。

「ミョウジ。お前の言うことも一理ある。だが、今回の非は俺にある」

土方部長は急に真面目な顔つきになり、真っ直ぐに私を見つめた。
その紫紺の瞳に、吸い込まれそうな錯覚を起こす。

「あの場で、他の奴らがいる前じゃ、お前を叱らざるを得なかった。酷い言い方をした、悪かった」

その言葉に、涙が溢れそうになった。

土方部長が、私の仕事を見ていてくれたこと。
私のミスではないと、そう言ってくれたこと。
私の仕事を、信じてくれたこと。
その上で、お互いの体面のための策だったと、謝ってくれたこと。

「ありがとう、ございます…っ」

不謹慎かもしれない。
でも今、この4年間必死になってやってきた私の仕事が報われた気がした。
この人の役に立てていたのだ、と。
そう思えたから。



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