[1]今はもう聴こえない波の音よ「こちらが先日集計したデータです」
そう言って差し出された資料を受け取った。
上から下まで、ざっと目を通す。
相変わらず俺の好みを理解した上で作られた、見やすいデータだ。
「昨年度との比較は出てるか?」
「こちらです」
デスクに置かれた次の資料。
「よし分かった、ご苦労だったな」
「恐れ入ります」
予想していたよりもずっと早く仕上げてきた。
それを労えば、感情の読めない淡々とした声が返ってくる。
高くもなく低くもない、耳に馴染む音だ。
「例の企画書はどうなってる?」
「明日の朝にはお渡し出来ます」
「そうか、助かる」
上司として、こいつほどいてくれて助かる部下が果たして他に何人いるだろうか。
仕事は速くて正確。
一言えば十を理解する。
その割りに余計なことは一切言わない。
自分の頭で考える力もあるし、機転も利く。
ついでに見た目も抜群ときた。
「来週の会議の資料も任せられるか?」
「既に作り始めております。金曜までにはご用意します」
「いつもすまねえな」
面倒なことを色々押し付けちまってる自覚はある。
だが文句一つ言ってこない、最高の部下だ。
「では、失礼します」
俺に一礼して、自分のデスクがある島に戻って行く後ろ姿は凛としていて隙がない。
ダークグレーのパンツスーツ。
長い黒髪は後頭部で纏められ、少し残った後れ毛が色っぽい。
この部署で一位二位を争う、いい女。
そんな部下を持てて、俺は幸せだ。
と、なるはずなんだが。
唯一にして、致命的な問題がある。
それはこいつ、ミョウジナマエが、三ヶ月前に別れた俺の女だってことだ。
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