想いが溢れて零れる前に[1]
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その人は、驚くほど艶やかな黒髪が印象的であった。
珍しくもない、どこでも見かけるようなダークグレーのパンツスーツと揃いのジャケット。
その華奢な背中で、彼女の動きに合わせて波打つ真っ直ぐな黒髪。

衝動的に、己の指を絡めてみたいという欲求に駆り立てられた。
初対面の女性、しかも背後からしかその姿を見ていない相手に対して抱く感情としては、些か問題であっただろう。
しかし脳内では、驚くほどの忠実さで欲求を満たした己の姿を想像した。
あの濡れ羽色の髪は、絡まることなく指の間を擦り抜けてしまうのだろうか。
口づければ、どんな香りがするのだろうか。
一瞬のうちにそんな勝手な想像を膨らませていた俺は、次の瞬間息を飲んだ。
彼女の二の腕辺りで、黒髪が風に舞う。
振り返った彼女は、その美しい黒髪を持つに相応しく、それは端正な顔をしていた。

所謂、一目惚れだったのだと今は思う。


「斎藤君。昨日の資料、あれでいこう。いい出来だよ」

火曜日の朝、出社直後のオフィス。
俺より数分遅れて出社して来た、彼女。
毎朝、何人もが挨拶と共にオフィスに入って来る中、彼女のおはようにだけ反応して振り返ってしまう俺は恐らく滑稽以外の何物でもないだろう。

いつも通りのパンツスーツ。
他の女性社員のように甘ったるい匂いもしないし、露出が多いわけでもない。
涼しげな目元、真っ直ぐに通った鼻筋、そして動きに合わせて靡く黒髪。
いかにも出来る女、といった雰囲気を崩さないストイックなルックス。
それなのに、滲み出る色気。

彼女は自分の席にバッグを置くなり、デスクでパソコンに向かっていた俺の方に歩み寄って来て。
昨日俺が手渡した資料片手にそう言った。
そこそこなページ数があったというのに、一晩で確認してくれたのか。
相変わらずな仕事の速さに、内心舌を巻いた。
彼女と俺は今、同じプロジェクトチームに所属している。
彼女はそのチームのリーダーだ。

「ありがとうございます」

俺が立ち上がろうとすると、そのままでいいと手で制される。

「さすが斎藤君、いい仕事するね」

秀麗な顔に浮かぶ笑顔に、心臓が高鳴った。
仕事を認められたことが嬉しい。
だがそれ以上に、その笑顔を向けられたことが嬉しい、だなんて。
どうにかしている、とは思う。
だが己の視線は、彼女の笑顔に釘付けになった。

「一箇所だけね、ちょっと調整してほしいとこがあって」

そう言って、彼女は俺のデスクに資料を置く。
椅子に座る俺の隣に立った彼女の髪から、シャンプーだろうか、微かな甘い匂いがした。
それだけで、不規則に跳ねる鼓動。

「このグラフなんだけどね」

少し前屈みになって、資料を指し示しながら話す彼女。
俺は慌てて視線を彼女から引き剥がし、意識を手元に集中させた。

プロジェクトの発足から半年。
会社を挙げてのこの一大プロジェクトのリーダーに抜擢された彼女に、チームの人選が一任されたことは俺も知っていた。
だから、俺がその一人に選ばれた時には驚いた。
それまで、俺の人付き合いが苦手な性分が災いして、挨拶くらいしか交わしたことのなかった俺を、何故選んでくれたのか。
その真意は、今も聞けていないまま。
それでも、同じチームに所属すれば自然と会話も増えた。
最低限の礼節さえ弁えてくれればあとは、と比較的フランクな彼女は、よくチームのメンバーを飲み会に誘ってくれたりもする。
別に、俺だけが特別なわけではない。
彼女は誰にだって分け隔てなく、気さくに接する。

唯一、特別なのはーーー。

「おはよう、ナマエ」
「左之!おはよう、早いね」

原田左之助。
俺の大学時代からの先輩でもある彼は、彼女の同期だ。
プロジェクトチームにも属している。
彼が彼女の、特別。
交際をしているのかどうか、直接尋ねたことはない。
だがその仲の良さは一目瞭然だった。
昼休憩は大抵二人でランチに出掛けるし、上がりが被るといつも二人で飲みに行っている。
恐らくはそういう仲なのだろう。
そう思うと、胸がひどく締め付けられた。

よろしく、と一言言い残して、彼女は原田の方に歩いて行く。
長い髪が揺れるその後ろ姿を、ただ黙って見送るしか出来ない己が悔しかった。
原田と並んで談笑する彼女の姿は、俺に見せるものとは全く違う笑みを浮かべている。
隣に立つ原田の笑みも、どことなく柔らかい。
高い身長に、鍛えられていると一目で分かる身体。
どちらも俺にはないものだ。
それを羨ましいと思う己を、認めたくはなかった。


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