T-寂しくなんて-[2]長い、沈黙があって。
それを破ったのは、椅子から立ち上がった女性のヒールが床の上を叩いた音だった。
彼女は黙っておじさんの前に跪ずくと、その華奢な手を伸ばして彼の黒いネクタイに指先を絡めた。
そのまましゅるりと音を立てて、ネクタイが首から抜け落ちる。
「え、ちょっ、ナマエちゃん?!」
あわあわと、おじさんが焦った声を上げるものの。
女性はまるで聞こえていないといった様子で。
次いでベストを脱がしてシャツのボタンに手をかける。
一体なにが始まるのかとどぎまぎしている間にも、おじさんの上半身を覆うものはなくなっていた。
すっかり抵抗を諦めたおじさんの傍らに、深緑色のシャツが落ちる。
女性はデスクの上に置いてあったケースの中から白い何かを取り出すと、おじさんの右肩に張り付けた。
どうやら湿布らしい。
「…やっぱり敵わねぇな」
おじさんはぽりぽりと頭を掻きながら、悔しそうな声を出した。
「当然です。私を誰だと思ってるんですか」
尊大な物言い。
だけどそこに先程までの刺々しさはない。
あるのは、気遣うような柔らかい音だけだ。
「ロープを引っ張る時に無茶したでしょう」
その指摘におじさんは、参りましたと苦笑する。
そんなこと、一緒に戦っていた僕でさえ気づかなかったのに。
「怪我したら自己申告してくださいって、もう何年も言ってるんですけどね」
そう文句を言いながらも、女性は笑みを浮かべている。
「だーいじょうぶだって!こんなん怪我の内に入んねぇよ」
へらり、とおじさんは笑って右肩を回して見せる。
「知ってますよ。でもそのこんなん、が明日の致命傷にならないとも限らないでしょう?」
咎めるようにそう言って、女性はおじさんのシャツを手に立ち上がった。
「薬を処方しておきましたから、今夜はアルコール禁止ですよ」
女性はおじさんの背後に回ってシャツを羽織らせながら言う。
「わ―かったよ」
不服そうに唇を尖らせながら、おじさんはのそりと立ち上がって。
今だに入口に突っ立ったままの僕に、ようやく気づいた。
「バニーちゃん!」
またそれか。
僕は思いっ切り、これみよがしに深い溜息を吐き出した。
「バニーちゃん?」
おじさんの声に反応した女性が僕の方を見て、納得したようにあぁと呟く。
この人にその呼び名は知られたくなかったと思った。
まあ、出動のシーンをモニターで見られている以上今さらな話だ。
「何度言えばわかるんですか。僕はバニーじゃない、バーナビーです」
今日1日で、すでに言い飽きた台詞。
おじさんとは話すだけ無駄だと、僕は女性に歩み寄った。
「はじめまして、バーナビー・ブルックスJr.です。ロイズさんに、ここに来るようにと言い付かって」
間近で見た彼女は、最初の剣幕からは予想できなかった可愛らしい顔立ちをしていた。
「ナマエ・ミョウジよ。メカニックとメディカルを担当してるの」
そう言って、差し出された右手。
ほんの少しだけ躊躇ってから、僕はその手を握りしめた。
自分でも、ちょっと驚いた。
例えばカメラが回っていたら、僕は誰にだって愛想を振り撒くし、友好的に演じる。
それは仕事の一環だ。
だが今この場にいるのは同僚たちだけで、カメラもない。
そんな時、いつもの自分なら決して握手に応じたりはしない。
人と関わるのは嫌いだ。
それなのに、なんとなく右手を伸ばしてしまった。
握りしめた手は思っていた通り華奢で。
だがその指先は微かに荒れていて、掌にはマメがあった。
見下ろせば、何の装飾も施されていない爪の先は短く切り揃えられていて。
職人の手だと思った。
「あのスーツにはどんどん改良を加えていくから、協力してね、バニーちゃん」
悪戯っぽく笑って付け加えられたその呼び名に。
思わず顔を顰たのは言うまでもない。
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