[71]味方
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ソファの上で抱き合って泣き、ようやく二人が顔を上げた時にはもうすっかり夜だった。
彼女の真っ赤になった目元が痛々しい。
恐らく自分はもっと酷いことになっているのだろうと、保科は思った。
泣いて、泣いて、ひたすらに泣いて。
そうして感情を全て吐き出し、抱えた思いを全て彼女に聞いてもらい、保科はようやく立ち上がる。
彼女に手を差し伸べ、二人でラバトリーに向かった。
交代で顔を洗い終え、鏡越しに視線が合う。
互いに目は真っ赤で、瞼も腫れ、随分な有り様だった。
それが妙におかしくなって、そっと笑い合う。
保科は彼女に向き直り、赤くなった眦に触れた。

「すまない、泣かせてしまった」

彼女が保科を見上げ、ゆるりと首を振る。

「いいんです。一緒に泣いて、一緒に笑って、そうやってずっと一緒にいましょう」

喜びを分かち合い、悲しみを半分ずつ背負って。
それでも、この手を離さずにいよう。

「うん」

保科はゆっくりと身を屈め、彼女の頬に唇を寄せた。
殆ど震えたまま、そっと口付ける。
気恥ずかしくなってすぐに離れると、彼女がきょとりと瞬き、そして花が開くように笑った。


こういう時こそちゃんと食べましょうと言われ、彼女が作ってくれた夕食をいつも以上にたくさん食べる。
久しぶりの彼女の手料理が、疲れた身体に沁みた。
しっかりとバスタブに浸かって身体を温め解し、彼女を抱き締めてベッドに潜り込む。
基本的に寝付きの良い保科はベッドの違いなどあまり気にならないが、彼女と長く離れて分かったことがあった。
大事なのはベッドの質ではなく、彼女が腕の中にいるかどうかということなのだ。
一人寝が出来ないとは言わない。
それはプロのスポーツ選手として大問題だ。
だが、彼女が腕の中にいる時の安心感は他の何を以ってしても再現出来なかった。
ああ、帰って来たと、保科は深く息を吐き出す。
彼女の身体は、まるで保科専用の抱き枕のようにぴたりと馴染んだ。

「おやすみなさい、拓己さん」
「うん……」

泣き疲れた保科は、試合の疲れや時差など諸々の原因も加わり、彼女を抱き締めて驚くほど早く寝落ちた。
昨日と今日で、プロとしての保科の状況は何一つ改善されていない。
だがその夜の眠りはとても深く優しく、心地よいものだった。


「あ、起きた。おはようございます、拓己さん」

翌朝目を覚まし、まず始めに聞いたのは彼女の声だった。
ベッドに俯せになって頬杖をついた彼女が、保科の目を見て柔らかく笑う。

「よく眠れたみたいですね」
「……何時だ?」
「もうすぐ九時です」

今日はオフなので、特に問題はない。
が、保科にしては珍しいほど遅い起床である。

「ごめんなさい、起こそうかとも思ったんですけど、気持ち良さそうに寝ていたのでつい」

保科の驚く様子を見て、彼女がそう付け足した。

「あなたは何を?」
「私ですか?ずっとこうしてましたよ」

それは、起きてからずっと寝顔を眺め続けていたということだろうか。
確かに保科もよく、彼女が目を覚ますまでずっと見つめていることはある。
だがそれは、彼女の見目が愛らしいからだ。
こんな男の寝顔を見て、彼女は何か楽しいのだろうか。
気になったので、保科は素直にそう聞いてみた。
すると彼女は何度か瞬きをし、そして唐突に笑った。

「ふふ、やっぱり自覚ないんですね、拓己さん」
「何のことだ?」
「一般的に見て、拓己さんの外見はトップクラスの格好良さなんですよ」

保科は黙って首を傾げる。

「綺麗寄りのイケメンというか。顔はクールビューティだけど鍛えてるからワイルドな感じも兼ね備えていてバランスが絶妙というか。上手く言えないですけど、とりあえず、好みとかフェチを別にすれば、女の子が見てわあ格好良いって思うルックスなんですよ」

はあ、と保科は間抜けな相槌を打った。
褒められているのだろうが、正直よく分からない。
保科は自身の外見というものに頓着したことがないのだ。
思い返してみれば顔が良いと言われたことが過去にも何度かあった気がするが、あまり深く考えたことがなかった。

「その女の子というのは、あなたも含まれるのだろうか」

結局、大事なのはそこである。
保科は別に、万人に好かれたいとは思わない。
女性に人気のある、所謂もてる男とやらになりたいわけでもない。
ただ、彼女には好かれたいのだ。
彼女が外見で人を判断するとは思わないが、どうせなら外見だって彼女の好みである方が望ましい。

「わあ、この状況で聞きますかそれ」
「聞いてはいけないことだったのか?」
「んん、そんなことないんですけどね。面と向かって言うのは照れ臭いというか」
「そういうものか。俺は、あなたの外見をとても好ましく思うが」
「あーー、ストップ、拓己さん!心臓に悪い!」
「……すまない?」
「もう、分かってないですよねそれ」

奇妙な呻き声を上げて枕に顔を埋めた彼女が、やがて意を決したような様子でがばっと顔を上げた。
その頬が、少し赤くなっている。

「好きですよ!格好良いって思ってます!」

とても直接的な肯定に、釣られて保科も照れ臭くなった。

「別に外見から好きになった訳じゃないですけど、初めて見た時から睫毛長いなあ美人だなあとは思ってましたし、中身を好きになった今となっては格好良い人だなあっていつも思ってますよ」
「美人?それは俺ではなくあなただ」
「〜〜〜もうやだ!」

保科が思ったことを素直に口にすると、より一層頬を赤くした彼女が再び枕に沈んだ。
保科が軽く半身を捻って隣を見れば、彼女の髪の隙間から覗く耳が少し赤くなっていて、それが愛らしいと思う。
だから思わず手が伸びていた。
片腕を立てて枕にし、もう一方の手で彼女の耳殻に触れる。

「ひゃんっ」

すると、彼女が可愛らしい悲鳴を上げて跳ね起きた。

「すまない、驚かせるつもりは、」

そこまで言いかけて、保科は口を噤む。
上体を起こして保科を見下ろす彼女の顔が、真っ赤になっていた。
なんだ、これは。
ぞわりと背筋を駆け上がった奇妙な感覚に、保科は身震いする。
色っぽい、と、言えばいいのだろうか。
睨み付けてくる彼女の視線は、しかし恥ずかしそうな色に染まっていて、どこか官能的だ。
保科は、自身を慰める時に思い描く彼女の乱れる姿を想像してしまい、咄嗟に視線を逸らした。

「………朝ごはん、作ってきます」
「あ、ああ、俺も走ってくる」

互いに相手の顔を見られないまま、そそくさとベッドから降りた。
彼女が先に寝室を出て行く。
一人になった保科は壁に額を預け、深々と溜息を吐き出した。
本当に、彼女といると調子が狂う。
そもそも昨日の号泣だって、男としてはとんだ醜態だろう。
そして今朝のこれである。
正直、彼女にはみっともない姿ばかり見せている気がした。
先程彼女は格好良いと思うと言ってくれたが、保科としてはいまいち納得出来ない。
格好良いということが一種のステータスならば、もっと格好付けさせて欲しいと思う。
だが恐らく、彼女の前でそれは出来ないのだろう。
彼女といると、ありのままの自分になれる。
隠すことなど何もない、自然体でいられる。
情けない話だが、格好付けて見せたい相手も、弱った時に傍にいて欲しい相手も彼女なのだ。
どう頑張っても、前者だけではいられない。
彼女が呆れていなければいいがと思いながら、保科はジャージに着替えて外に出た。

足取り軽やかに走り始めて、すぐに、そんな自分に驚く。
なんだろう、この身体の軽さは。
最も重要な大会の敗戦直後とは思えないコンディションに、保科は戸惑った。
数日前の敗戦を考えるだけで、後悔はマグマのように噴き出してくる。
夢を、誇りを削り砕いたこの痛みは、そう容易に消えないだろう。
だが、もう足取りは重くない。
誰かが自分を肯定してくれるということは、絶望の淵からでも人を救うのか。
保科はマンションを見上げ、彼女の部屋の窓をその視界に収めてふっと笑った。




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