[51]声音
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十月二十九日。

保科です。
少々、不調な時期が続いています。最近はチームメイトとあまりプレーが噛み合わず、試合に出場する機会が減りました。直接的な原因が分からず、解決策を模索する日々です。監督には、俺のプレーが精彩を欠いていると言われました。自分としてはこれまでと何ら変わりないパフォーマンスが出来ていると思っていただけに、それは衝撃的でした。どう改善すればよいのか、


そこまで打ち込んで、保科はメールを削除した。
どうかしている、と思った。
こんなメールを彼女に送って、どうするつもりだったのだろう。
どんな返事を期待していたのだろう。
保科は短く嘆息し、気持ちを切り替えて再度メールを作成した。


保科です。
最近随分と寒くなってきました。風邪など引いていませんか。
あなたの書いている小説が、そろそろ完結しそうだと言っていましたね。調子はどうですか。あまり根を詰めすぎないよう、気を付けて下さい。


何の面白みもないメールを、保科は送信する。
愚痴っぽい弱音を吐くよりは幾分かましだと思った。
彼女は、保科がスタメンを外されたことに気付いているかもしれない。
クラブチームとの不和、故障、燃え尽き症候群等々、保科の状態については各メディアが好き勝手なことを言っていた。
どれか一つくらい、彼女の耳にも入っているかもしれない。
余計なことを言って心配させたくはなかった。

二十年もサッカーをしていれば、スランプの経験は何度もある。
技術に関して言えば、伸び悩み続けることがそのままサッカーを続けるということだ。
毎日目に見えて上手くなるような選手はいない。
進んでいるかも分からないようなその道を走り続けられるかどうか、それが時に前進へと繋がる。
そのくらいのもので、大抵は儘ならない現実との戦いだ。
保科はずっと前からそう知っていたし、それを繰り返してここまで来た。
だが今回は、いつもと何かが違うのだ。
スキルやフィジカルの問題ではない。
だからこそ、どう対処すればいいのか分からない。
どれだけ練習しても、ただ無為な時間が流れていくだけのような気がした。

その週末も、保科はベンチ入りこそしていたものの、試合には出られなかった。
チームは一対三で敗戦。
保科は何も出来ず、それをベンチで見ていた。
ミーティングを終えて解散した後、保科は九十分のランニングをする。
それは、試合に出られなかった時には必ずそうすると決めている自分のルールだった。
そこにさらに自主練習を加え、身体を酷使して夜遅くに帰宅。
オーバーワークだと自覚していた。
がむしゃらに練習すればいいという問題でないことは分かっている。
それでも保科には、そうする以外の術が見つからなかった。


保科さん、お疲れ様です。
毎日寒いですね。保科さんこそ、体調は大丈夫ですか。
執筆は一通り終わり、今は何度も繰り返し読んで確認作業の最中です。書き手によって執筆の進め方は千差万別だそうですが、私は一通り書き終えてから読み直している間に、ふと別のシチュエーションが思い浮かんだりして、大幅に書き直すことが多いんです。遠回りなやり方だなあとは思いますが、私にとってはこれが最短のようです。昔から要領が良いと言われてきましたが、意外と不器用なのかもしれません。
決して悪い意味ではないのですが。保科さんも、結構不器用そうですよね。何となく、そんな印象です。


恐らく、深い意味はなかったのだろう。
あるいは、敢えて遠回しな表現で、今の保科を慮ったのか。
どちらにせよ、彼女のメールは保科の胸に甘く爪を立てた。
彼女がとても恋しくなる。
試合のことには一切触れず、いつもと何ら変わりのない調子でメールをくれた彼女に、無性に縋りたくなった。
強烈にそう自覚した後の行動は、殆ど無意識だ。
気が付けば保科は、彼女に電話をかけていた。

『はい、もしもし』
「保科です」
『こんばんは、保科さん』

鼓膜を柔らかく揺らす、彼女の声。
耳にするのは随分と久しぶりだった。
メールは欠かすことなく毎週送っているが、彼女にはもう一年以上会っていない。
五輪、そしてW杯予選。
保科が想像していた以上に、この一年間は忙しかった。
練習、取材、移動、試合。
完全なオフ日は少なく、あったとしても日本にいるとは限らない。
徹底的に、彼女と会うタイミングを逸し続けた一年だった。

『何かありましたか?』

名乗ったきり黙り込んだ保科を気にして、彼女が声を掛けてくれる。
だが保科としては、余計に口を噤むしかなかった。
彼女の声を聞きたいと、それだけを思って電話をしたが、用事は何もないのだ。
保科は生憎、それらしく取り繕うということを得手としない。

「すみません、用件と言えるものは何もありません」

馬鹿正直に答えた保科に、彼女は戸惑った様子だった。
当然だ。
突然電話が掛かってきて、用向きを訊ねたら何もないと返されたのだ。
ならばなぜ電話を掛けてきたのか、彼女は訝しむだろう。

「……ただ、あなたの声が、聞きたくなりました」

そう言って、保科は考える。
声を聞きたいならば、何かを訊ねればいい。
だが保科にとって、他愛ない雑談を自ら振るというのは、なかなかに難易度の高い課題だった。
かと言って、内容は何でもいいので何か話して欲しいなんて、それは不躾かつ無茶な頼みだろう。
逆の立場だとしたら、保科には到底聞けない相談だ。

「……すみません、どうかしていたようです。あなたも忙しいのに、邪魔をしてしまいました」

本当に、どうかしている。
保科は額を押さえ、呻くように謝罪した。
そのまま、電話を切ろうと思った、その時だ。

『今日、家の近所に新しく出来たカフェに行って来たんですよ』

彼女が唐突に、何の脈絡もなくそう言った。

『家に篭っているとどうしても煮詰まってしまうので、たまに、カフェや公園で息抜きをするようにしていて。今日行った店は、最近出来たことを知っていたので行ってみたいと思ってたんです。店の前のブラックボードに、お勧めはアップルパイって書いてあるのが気になってたんですよね。私、甘すぎるケーキはちょっと苦手なんですけど、パイとかタルトとかは凄く好きなんです』

特に、同意を求められることもなければ、話を振られることもない。
一方的な彼女の話に、保科は「はい」と相槌を打った。
すると、彼女がまた話し出す。

『お勧めと言うだけあって、美味しいアップルパイでした。私、中の林檎が少ししゃりしゃりしてるのが好きなんですよね。あれは、自分で作っても再現出来ない味だったなあ。まあ、そもそも、お菓子作りなんて滅多にしないんですけどね。でも、料理は結構好きなんですよ。最近だと、一昨日作った豚の角煮が我ながら美味しくて。圧力鍋を買ったら、煮物が本当に楽になりました。あれ、凄いんですよ。ほんの三十分くらいで、とろっとろの角煮が出来るんです。普通の鍋だと何時間も煮込まなきゃいけないので、最初はびっくりしました』

彼女が一人ゆっくりと喋り続けるその声を聞きながら、保科はようやく理解した。
彼女は、保科が言葉に出来た以上に、保科の望みを理解してくれたのだ。
声が聞きたい、だから何か話して欲しい、と。
そんな保科の身勝手極まりない要望を、彼女は叶えてくれている。

『って、すみません。なんか食べ物の話ばっかりですね。えーーっと、……そうだ、こないだ授業で面白い話を聞いたんですよ、』

恐らく、時間にすれば五分程度だっただろう。
彼女はひたすら、話をし続けてくれた。
サッカーの話題には一切触れず、保科に何かを問うこともなく、他愛のない話をゆっくりと。
保科はそれを、時折相槌を打つ以外ずっと黙って聞いていた。
彼女が穏やかに、そして時に楽しげに語る彼女の日常の話が、保科の中に柔らかく降り積もる。
空虚な胸臆を埋めるように、焦燥に逸る心を宥めるように、疲弊した身体を癒すように。

「……ミョウジさん、」

彼女の話が一区切りついたところで、保科はそっと口を開いた。

「……ありがとうございます」
『こちらこそ。話、たくさん聞いてくれてありがとうございました』

どう考えても、無理を言ったのは保科の方だったのに、彼女はそうやって全て包み込んでしまう。

『保科さん』
「はい」
『ほんと、変わらないですね』
「……え?」

何が、と問う前に、彼女は笑いを滲ませた声音で続けた。

『私が保科さんの何を知っているのかって言うと、それはまた別の話になりますけど。でも私の中で保科さんはいつも、真っ直ぐで、正直で、自分の決めたことを守り通していて、何の驕りもなく、かと言って卑下することもなく』

世間的な保科拓己のイメージから大きく外れることはない、彼女の評価。
メディアではさらに、礼儀正しいが無愛想で口下手、沈着冷静だが豪胆、などと評されていた。

『あとは、意外と不器用で、ちょっと子どもっぽいところもあって、存外臆病だったりもして』

付け加えられた評価に、保科は目を瞬かせる。
図星だと、思った。
彼女の言葉は、特に何かを含めた言い方ではなかったが、流石に気恥ずかしいというか情けない。
基本的に男とは、惚れた女性に格好良いと思って貰いたい生き物だ。
真逆のことを言われるのは、本意ではない。
それなのに。

『そういうところ、親しい人は勿論別として、世間できゃあきゃあ言ってるファンの女性は知らないんだろうなあと思うと、ちょっとした優越感です』

彼女がそう言って笑ったから、急に全てが愛おしく思えた。
メディアに好き放題言われるのとは、根本的に意味が異なる。
彼女はサッカーを通さない保科自身を、この四年間、見続けてくれたのだ。
世間が知らない、気付かない部分まで含めて、きちんと保科を見ていてくれた。
そしてその、決して美点ではない部分を彼女なりの言葉で肯定してくれた。
急に、息がしやすくなった。

「あなたは……」

まず何を伝えるべきか、保科は迷う。
感謝の気持ちか、それとも、この胸に溢れ返った愛おしさを言葉にしてもいいのか。

「あなたは、凄いですね」

結局、保科の口から零れたのは素直な感嘆で、彼女は不思議そうに何がと問うて来る。

「俺を喜ばせる天才だ」

熱っぽくなった保科の言葉に、彼女は擽ったそうに笑った。



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