[21]末弟
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「満兄、遅くなって………聖也?!」

そして、翌日。
練習終わりにコーチに呼び止められ、少しばかり時間に遅れた保科が急いでクラブハウスの正面入り口に向かうと、そこには目当ての人物に加え、もう一人、見慣れた男が待っていた。

「遅い!」
「よっ、タク」

腕を組んだ満の隣で、苦笑したもう一人の兄が片手を上げる。
静岡にいるはずの聖也が、なぜかそこに立っていた。

「どうしてここに、」

足早に近付けば、いいから行くぞと、満に肩を組まれる。
その勢いに負けて引き摺られていく保科の隣に並び、聖也が笑った。

「そりゃお前、タクが最初に飲む時は三人揃ってって、聖也と決めてたからな」

何でもないことのように教えられ、保科は言葉を失くす。
それも、知らなかった。
兄たちが自分と酒を飲むのを楽しみにしてくれていたことも、そんな約束を交わしていたことも。

「それで、静岡から、」
「おう。正直に、弟が成人するんですって話したら、行かせてくれたぞ。ウチのコーチは結構、そういう情に厚くてな」
「……ありがとうございます」

それは本当に、心からの感謝だった。
だが思い返せば、昔からずっとそうだったのだ。
自分の誕生日に興味がなく、プレゼントや馳走を強請ることもない弟の生まれた日を、兄たちは毎年本人以上に楽しみにしていた。
年齢差ゆえに弟とは生活スケジュールが合わない中で都合をつけ、必ず一緒に夕食を摂って祝いの言葉をかけた。
満は大阪に行ってからも、毎年欠かさずメールを送った。
感情表現を得意とはしない保科は、いつも決まった言葉で感謝を伝えることしか出来なかったが、本当に嬉しかったのだ。
そして今だって、とても喜んでいる。


満に連れられ訪れた、小料理屋。
個室の座敷に案内され、掘り炬燵の席に腰を下ろした。

「最初の一杯といえば何だ?」
「ビールだろ。まあ、美味くはないかもしれんが」

保科の意見など聞く気もないらしく、注文は兄二人によって勝手に済まされる。
目の前にどんと置かれたビールジョッキを、保科は奇妙な感覚と共に持ち上げた。

「んじゃまあ、我らが末っ子の成人を祝して」
「タク、おめでとう」

テーブルの向かいに並んで座った二人の兄が、そう言って笑い、ジョッキを掲げる。

「……ありがとうございます」

保科はそっと、自らのジョッキをぶつけた。
ビールをぐっと流し込む兄たちに倣い、保科も恐る恐る、それに口を付けてみる。
舌に感じるのは炭酸と、深い苦味。
決して不味くはないが、何が美味しいのかも分からない。
そんな保科の感想を、兄たちは違うことなく察したのだろう。
吹き出すように笑われた。

「ま、最初はそんなもんだ。付き合いで飲んでるうちに、気が付けば美味くなってるさ」
「一応、甘い酒も置いてる店にしたからな。別のもん頼むか?」

兄たちの気遣いに、保科は首を横に振る。

「いえ、大丈夫です」

飲めないほどではなかったし、何よりも、二人と同じものを飲んでいるのだと思うと、途中でやめてしまうのは勿体無い気がした。

「無理はすんなよ」
「あと、気持ち悪くなりそうだったらやめとけよ。聖也はそこそこだが、俺はそんなに強くないからな。遺伝的にはお前も、ザルではないだろ」
「そうだな。ちゃんと食いながらゆっくり飲め」

二人の忠告に頷いてから、保科はもう一口、苦い液体を含んでみる。
そうか成人したのかと、今更ながらに実感した。
昨日までと、何かが大きく変わったわけではない。
酒が飲めるようになったって、明日以降、保科が日常的に飲酒をすることはないだろう。
当然煙草も吸わない。
昨日も今日もサッカーばかりしていたように、明日だってサッカーをする。
朝起きて走り、クラブハウスで筋力トレーニングと練習をし、食堂で腹を満たし、またボールを蹴り、家に帰って汗を流して寝るという、そんな日々の繰り返しだ。
何も変わらない。
でも例えばチームメイトに誘われた食事の席で、酒に付き合うことが出来るようになった。
こうして兄たちと、酒を飲みながら語ることが出来るようになった。
まだ酒に酔うという感覚は分からないが、この雰囲気自体が、保科は嫌いではない。
ならばこれは嬉しいことなのだろうと、そう思った。

「変な感じだなあ。あのタクが飲んでるなんて」
「確かに。凄い違和感だ」

ほぼ強制的に飲ませておいて、兄二人はそんなことを言い合う。

「七個も離れてるとな。いつまで経っても、ちびっこい餓鬼のイメージが抜けないんだよなあ」
「だろうな」

妙に優しげな視線で見られ、保科は据わりが悪くなり身動いだ。
反発する気はないが、気恥ずかしさは拭えない。
保科自身の記憶にはないが、それこそ生まれたばかりの、おむつをして涎を垂らしていた頃の保科を、特に満はしっかりと憶えているのだ。
それから、幼稚園、小学校、中学校と、成長の過程を一通り見られている。
兄弟とはそういうものだと分かってはいても、この年齢差では、弟の保科に反論の術が全くない。
それが嫌なわけではないが、それこそ成人した身として、兄の語る昔話ほど気不味いものはなかった。

「嫌そうな顔すんなよ。ったく、昔は可愛かったのに」
「確かに。憶えてるか?幼稚園の頃なんて、近所のおばさん連中に天使呼ばわりされてたよな」
「そうそう、女の子みたいに可愛いタクちゃんってな。それが今じゃこの可愛げのなさだよ」
「まあ、満に似なかったのは幸いだ。タクの顔で女好きになってみろ、間違いなく刺されるぞ」

勝手なことを言い合う兄たちを後目に、保科は黙って山芋のわさび漬けに箸を伸ばす。
こういう時、自分が何を言っても無駄どころか火に油だということを、保科はよくよく理解していた。

「顔だけは一級品だからなあ。ま、宝の持ち腐れは続行中みたいだが」
「タクお前、そろそろ彼女の一人や二人くらい作って紹介しろって」
「好きな女とか、まだいないのか?」

山芋が、箸の間から滑り落ちる。

「……俺には、そういうことは向いていませんよ」

保科はもう一度、今度は慎重に山芋を摘んで口に入れた。
頼むからこれ以上何も聞いてくれるなと、保科は思う。
幸い、アルコールが入って機嫌の良い兄たちは、保科の不審な挙動を見逃してくれたらしい。

「女はいいぞぉ、タク」

話題はすぐさま、満の持論に切り替わった。

「あったかくて、柔らかくて、そりゃ時々面倒だが、でも癒される。男にはないもんをいっぱい持ってる」

温かくて、柔らかい。
そのワードから本能的に不埒な想像をした保科は、咄嗟にジョッキを掴んでビールを喉に流し込んだ。
誰を相手に何を想像したのか、自覚してはいけないと脳が危険信号を発する。
だがその時点で事態はすでに手遅れであることを、保科は重々理解していた。
保科が想像する相手など、一人を除いて他にいないからだ。

彼女を抱き締めたら、温かくて、柔らかいのだろうか。

以前、風邪を引かないようにと自らの学生服を着せかけた彼女の姿を思い出す。
同時に、大柴に抱き上げられて笑った彼女のことも思い出してしまい、奥歯を噛み締めた。

「まあ、満みたいになれとは欠片も思わないけどな」
「おい」
「でもまあタク、確かに一理あるぞ」

ジョッキの中身を飲み干した聖也が、メニューに視線を走らせながら口元で笑う。

「恋人は、親兄弟やチームメイトとはまた違う。何があっても切れない縁じゃないし、サッカーっていう共通の信念があるわけでもない。不安定で脆い関係だ。でも、だからこそ価値がある」

日本酒にするか、と合間に満への問いかけを挟み、他愛ないことのように聖也は続けた。

「同じ夢を持つわけでもない赤の他人が、自分のことを愛して寄り添ってくれる。満を見てるとまるで普通のことみたいだが、よくよく考えれば凄いことだろ?」

赤の他人。
全くもってその通りだ。
それでも保科は、彼女のことを好きになった。
共通の夢などない。
むしろ、自らのチームメイトの勝利を願うという意味では、殆ど敵であったと言えるだろう。
それでも、好きにならずにはいられなかった。
保科は、この想いが叶うと考えたことは一度もない。
でも、もし、叶ったら。
彼女に自分を愛してもらえたら。
それは、どれほどの幸福なのだろう。
好きな人に、自分を好いてもらえる。
それがどのような感覚なのか、保科は知らなかった。
きっと、知ることはない。
だが知りたくないわけではない。
そうか、知りたいのかと、保科はこの時初めて気付いた。
好きだから好きでいて、好きだから彼女には幸せでいてほしい。
そんな想いには続きがあって、好きだからこそ、彼女にも自分を好きになってほしい。
そう願うから、彼女が他の男を好きなのかもしれないという事実が、堪え難いほど苦しいのか。

「自分で言うのもなんだが、俺らの進もうとしてる道は決して易しくない。満はまあこの通りだし、俺もなんだかんだ上手くやれる。心配なのはお前なんだよ、タク」
「昔からそうだが、最近特にな。お前、ちょっとオーバーワーク気味だぞ」

揃って険しさの滲んだ苦笑を見せられ、保科は黙ったまま話の続きを待った。

「無理も無茶も、しなきゃなんない時があるのは分かる。でも、お前は自分で加減するのが下手だからな」
「そういう時に自分を支えて、お前が一番だって言ってくれる存在を、ちゃんと傍に置いておけよって話だ」

だからさっさと女作って紹介しろ、と、満が真面目な空気を茶化す。
だがその直前の言葉が兄たちの本音なのだと、保科にはちゃんと理解出来ていた。
だが生憎と、その期待には応えられそうにない。
保科は素直に頷きながらも、心配してくれる兄たちに対して申し訳なく思った。



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