[8]別離
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決勝は、準決勝までとは異なり、前後半合わせて九十分で試合が行われる。
その分ハーフタイムも伸び、十五分。
前半終了のホイッスルと共に、彼女はほっと白い息を吐き出した。
無意識のうちに、身体に力が入っていたのだろう。
ペンを持ったままの右手をくるりと回し、思い出したかのように小さく鼻を啜った。
注意深く見つめれば、僅かに唇の血色が悪いように見受けられる。
彼女の全身にさっと視線を走らせ、無理もないと思った。
相変わらず少しばかり短いスカートとブレザーでは、この気温に対抗しきれないだろう。
保科は迷わず、詰襟の学生服を脱いだ。

「失礼、」

それを彼女の肩に着せ掛ければ、え、と驚いた彼女が振り返る。
彼女の華奢な身体が余計に小さく見えた。

「俺ので申し訳ないですが、着ていて下さい。そのままでは風邪を引いてしまう」
「いや、でも、これじゃ保科さんが、」

慌てたように上着に手を掛けた彼女の指先を抑え込むように、その上から手を重ねる。
初めて触れた彼女の手は、ひどく冷たかった。
それとも、保科の手が熱いのだろうか。

「俺なら大丈夫です。鍛えていますから」
「……すみません、じゃあ、お借りします」

保科が折れないことを理解したらしい彼女が、学生服の端を掴んだ。
彼女には余る肩幅、スカートの丈に重なる裾。
普段から自分が着ている学生服が彼女の身を包んでいるという、違和感。
その違和感はすぐさま、説明しづらい感覚にすり替わった。
目の前で寒さに震える彼女が、先日準決勝のベンチで見た、聖蹟が負けた直後の彼女の姿に重なる。
あの時、一人黙々とベンチを片付けていた彼女。
今、自身の学生服を纏った彼女を見て、そうか自分はあの時彼女を守ってあげたかったのだと理解した。
涙を堪える彼女に手を差し伸べ、傷付いた心を抱き締めたかったのだ。
よく頑張った、もういいんだと、言ってあげたかった。
勿論それは保科の自己満足であり、そんなことを彼女が望んでいないことは分かっている。
サッカーで彼女を喜ばせることが出来るのは、彼女を笑顔に出来るのは、聖蹟だけだ。
保科がいくら彼女の努力を讃えようが、この先プロでどれほどのシュートを決めようが、彼女を笑わせることは出来ない。
聖蹟の勝利だけが唯一、彼女の献身に報いることが出来るのだ。

「今日は、聖蹟の部員は来ていないのですか?」
「はい、みんな練習です。何人かは、撮影のために借り出しましたけど」
「そうですか」

だから、思う。
どうか彼女を、再び全国に連れて行ってあげてくれ。
勿論保科がどこよりも応援するのは東院だ。
来年以降、後輩たちの活躍を心から願い、期待している。
東院のOBとして、元主将として、時間が取れればきっと応援に駆け付けるだろう。
それでも個人として、一人の男として、彼女の幸福を願っている。
また来年、彼女がチームの勝利に笑えるように。
一つでも、その回数が多いように。
今頃悔しさをぶつけるように練習しているのであろう彼らに、望みを託すしかないのだ。


後半もまた、彼女は熱心に保科の意見を求めた。
保科は持ち得る限りの知識と経験をもとに、その一つひとつに対し真摯に答える。
個人的な感想を殆ど含まない戦略的な意見交換だったが、保科にとってそれはとても有意義だった。
彼女の役にも立っただろう。
何よりも、彼女が少し楽しそうだった、それが嬉しかった。
彼女は恐らく、特別にサッカーが好きというわけではない。
だが、ジャンルを問わず、頭を使って考えることは好きなのだろう。
そろそろ他人には読解不能となりつつある彼女のメモをこっそり見下ろし、保科は唇を緩めた。
自分の発言だからこそなんとか読み取れるが、そこには、保科の意見が彼女の筆跡で書かれている。
自分の存在が何らかの形で彼女に影響を与えている。
今後彼女がこの試合を振り返る時、きっと保科を思い出すだろう。
そう考えると嬉しくなった。
だが同時に、たったそれだけの繋がりしかないのだと思い知らされる。
四月からプロになる保科と、引き続き聖蹟のマネージャーを務めるであろう彼女との関係性はよくて知人で、それ以上でもそれ以下でもなかった。

そして、九十分の激戦の末、試合終了のホイッスルが鳴り響く。
観客の大歓声を浴びながら、選手権は幕を閉じた。


「これ、ありがとうございました」

ペンをブレザーの内側に仕舞った彼女が、詰襟の学生服を脱いで保科に差し出す。
受け取って袖を通した保科は、その微かな温もりに一度身体を震わせた。
彼女の、体温だ。

「すみません、やっぱり寒かったですよね」
「いえ、問題ありません」
「……なら、いいんですけど。風邪とか、引かないで下さいね」

彼女の気遣いに感謝しながら、前のボタンを留めていく。
ふと、第二ボタンという単語が脳裏を過ぎった。
いくら恋愛事に疎いとはいえ、保科とて、第二ボタンの風習くらいは知っている。

だが、受け取っては貰えないのだろうな。

保科はボタンを全て留め終え、顔を上げた。
足元に置いていたスクールバッグを拾い上げた彼女が、その中にバインダーを仕舞い込んでいる。

今を逃せば、もうきっと、次の機会は。

「………あの、」
「じゃあ、私はこれで、」

何を言えばいいのか定まらぬまま、それでも咄嗟に口から飛び出した言葉は、彼女の迷いのない声に掻き消された。

「色々と勉強になりました。ありがとうございました」

ぺこりと礼儀正しく頭を下げられ、保科は口籠る。
結局言葉に出来たのは「いえ」という、何の面白みもない一言だけだった。
こういう時、気の利いた言葉がするすると口から滑り出せば何か違うのかもしれない。
だが生憎と保科にそんな器用な真似は出来なかった。

「失礼します」

控えめに会釈し、彼女が踵を返す。
ミョウジさん、と保科が呼ぶ声は、音になることなく。
彼女は長い髪を揺らし、去って行った。
一人取り残された保科は、ぐっと拳を握り締める。

今なら、まだ。

でも、追い掛けて何を言えばいい。
また会いたい。
もっと話をしたい。
訝しまれるに決まっている。
正直に好きだと言えばいいのか。
そんなのは、彼女にとっては迷惑なだけだろう。
それに、好意を伝えることで、梁山の情報を教えたのが下心によるものだったと思われたくはなかった。
保科に対する心象は置いておくとしても、保科は彼女のあの分析力に興味を引かれ、その能力を買ったからこそ取引を持ちかけたのだ。
そこを、彼女に誤解されたくはなかった。

結局、保科の両足はコンクリートに根を生やしたまま動くことなく。
彼女の姿は、出口に向かう人の波に消えた。



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