[40]そして、皆と此処で生きる
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視察などもう知らんと言い切った千景様は、その言葉通り真っ直ぐ屋敷に戻った。
見慣れた門を、馬に乗ったままくぐろうとしたその時から。
しばらく、私にとっては驚きの連続となった。
まず門番が、普段であれば恭しく頭を下げ迎えてくれる門番が、私と千景様の姿を見るなり歓声を上げたのだ。
おかえりなさいませと、それはそれは嬉しそうに迎えられる。
逃げ出した私がのこのこ帰るなんて、と不安になっていた私は、その物珍しい姿に驚きつつも安堵したのだが。
その歓声を聞き付けたらしい屋敷の者が、わんさと押し寄せてきたのには目を白黒させるしかなかった。
梅乃やみつをはじめとした女中たちに、臣下の皆。
果てや厨人に庭師まで。
とにかく屋敷の者総出で出迎えられた。
そんなことは、昨年初めてこの屋敷に来た時以来である。
そして何よりも、あの時とは異なり、皆が笑顔だったのだ。
畏まった一礼なんて忘れてしまったらしく、それぞれが思うがまま、それぞれの言葉で私の帰りを喜んでくれた。
心配した、無事で良かった、帰って来てくれて嬉しい、と。
梅乃なんて、泣きながら私に抱き付いてきた。
そしてあの厳しい不二まで、目に涙を浮かべて私をまるで自分の娘であるかのように抱き締めてくれたのだ。
そして、野分先生も。
安心したように微笑み、目が合うと、一つ頷いてくれた。
それだけで、伝わるものがあった。
次の瞬間千景様に睨まれ、野分先生は慌てて頭を下げていたけれど。
この件に関しては、私がどうにか千景様の怒りを鎮めねばならないと思う。

千景様に手を引かれながら、私は皆の大歓迎を受けて表玄関までの石畳を歩いた。
責められても仕方のないことをしたと、思っていたのだ。
よくよく考えずとも、頭領の正室が夜半に勝手に屋敷から飛び出して里を抜けようとしたなんて、とんでもない不祥事だ。
冷静さを欠いて、一体どれほどの者に迷惑をかけたのか。
いくら詫びても足りないと思っていた。
それなのに皆、一言も私を責めることなくまるで当然とばかりに迎え入れてくれた。
どうしてこんなに良くしてもらえるのか、全然分からないけれど。
ただただその優しさが嬉しくて、私は着物の袖でこっそりと目元を拭った。

「だから心配は要らんと言っただろう」

私の隣で、千景様がどこか面白くなさそうに唸る。
見上げれば、まだ野分先生の方を睨んでいた。

「はい……千景様の仰る通りでした」

ふんと鼻を鳴らした千景様が、ふと足を止めた。
私もまた同時に、目にした姿に立ち止まる。
玄関の前で、長老たちが待っていた。
思わず怯んだ私を見て、千景様は何かを察したらしかった。

「なるほど、我が妻を追い詰めたのは貴様らか」

千景様の地を這うような声音に、皆が一様に口を噤んだ。
私は慌てて千景様に向き直る。

「千景様、あの、これは私が勝手に、」

そう言いかけた私の唇を、千景様の指が塞いだ。
黙り込んだ私に代わり、千景様が長老たちに向き直る。

「二度目はないぞ、肝に銘じておけ」

そして千景様は、静まり返った周囲をざっと見渡してから付け足した。

「生涯、我が妻は此れ一人だ。側室なぞ要らん。我が妻に対する狼藉は頭首であるこの俺への謀反と心得よ。無論、その時は即刻首を斬り落とす」

私はぽかんと、千景様を見上げる。
その声は決して大きくなかったのに、誰一人として聞き漏らすことを許さない響きがあった。

「世継ぎなど誰でも構わん。候補者の一覧はすでに出来ている、育てたければ勝手にそうしろ」

千景様は長老に向かってそう言い放ち、私の手を引いて式台に上がった。

「ち、千景様っ」

確かに、すでにあの丘で言われたことではあったけれども。
まさかこんな直截的に宣言されるとは思わず、私は慌てふためいた。
恐ろしくて、後ろを振り返れない。
しかし千景様は全く気にしていないらしく、平然と草履を脱ぎ始めるのだ。
唖然としていた女中たちが、慌てて千景様と私の足元に跪いた。
泥塗れになった足袋を、脱がしてもらう。

「さっさと湯浴みをして来い」

ぶっきら棒に、だがどこか優しく促され、私は流されるがまま頷いた。
梅乃が嬉しそうに私の手を取り、参りましょう、と湯殿に向かって歩き出す。
ちらと後ろを振り向けば、不二が深々と千景様に頭を下げるところだった。
他の女中らも皆それに倣い、千景様に礼をしてから私の後を付いて来る。
千景様は屋敷の者に何らかの指示を出しながらも、私と目が合うと静かに笑った。
急に照れ臭くなって、私は慌てて前に向き直る。
そこで不意に、気付いたことがあった。

「梅乃」
「はい、奥方様」
「この簪がないことに気付いたのは、貴女?」

懐から取り出した簪を見せれば、梅乃は顔を青くした。

「もっ、申し訳ございません!奥方様の行李を勝手に開けてしまいっ、」
「え、ああ、そんなことはいいの」

この簪がないという報告が、千景様に私の不在を確信させた。
梅乃が気付いてくれたからこそ、私と千景様はあの丘で会えたのだろう。

「ありがとう、梅乃。心配をかけてごめんなさい」
「いえ……っ、いいえ、奥方様!」

千景様だけではない。
私はこの屋敷の者にも、愛されていたのだ。
世継ぎを生むための道具としてでなく、私個人を見てくれていた。
私の好きな物や癖を覚えてくれていた。
知っていたはずなのに、どうして忘れてしまっていたのだろう。
子のことばかり考えて、焦って、視野が狭くなっていたのかもしれない。
周囲に目を向ければ、こんなにも大切にされていたのに。

「これからも奥方様にお仕え出来ることが、私の幸せですから」

涙に滲んだ笑顔を見せられ、私もまた、笑った。


湯浴みの後に千景様の部屋へと向かえば、すでに着物に着替えた千景様が待っていた。
行儀悪く片膝を立て着物の裾から脚を覗かせた座り方が様になってしまうのだから、相変わらず色気のある方である。
振り返った千景様が、顎をしゃくって私を誘った。
時刻は昼七ツ、外はまだ明るい。

「少し早いが、悪くない」

千景様がそう言って、庭の桜を見遣った。
今朝丘の上で見た桜は八分咲きだったが、庭の桜はまだその半分程度だ。
それでも一夜明け、昨日より多くの花が開いている。
その桜を背景に、千景様が私を呼んでいた。
もう叶わないと思っていた、約束の花見酒だ。
私は千景様の傍に腰を下ろし、徳利を取って千景様に酌をした。
千景様がその徳利を奪い、私の杯にも酒を注いでくれる。

「乾杯といきたいが、お前は先に食事を摂れ」

そう言って指し示されたのは、最早恒例の、私の好きな物ばかりが並んだ膳。
昨日の夜から何も食べていない私のために、こんな中途半端な時間なのに厨人が作ってくれたのだろう。

「しっかり食べろ。身体を粗末にするな」

聞き慣れた言葉に頷くと、いや、と千景様が僅かに苦笑した。

「勘違いするな」
「はい?」
「子を成すかどうかという話ではない」

千景様が杯を置き、私の頬に手を添える。

「お前の身体だから、大事なのだ」

今日は、涙腺が弱い日だ。
私はまた泣きそうになって、咄嗟に俯いた。
今ならば、ちゃんと伝わって来る。
穿った見方をすることなく、千景様の想いを受け取ることが出来る。
それが私自身に向けられた優しさなのだと、知ったから。

「あまり泣いてくれるな、愛しき我が妻よ」

誤魔化されてはくれなかった千景様が、私の頤に指を掛けて掬い上げた。
視線が絡めば、紅の瞳が穏やかに揺れる。
自然と瞼を伏せれば、唇が重なった。

ああ、ようやく帰って来たのだ、と。
私の眦から、幸せな涙が零れ落ちた。




愛を護るそのために
- もう二度と、貴方の傍を離れはしない -


第二部 完





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