致命的安寧[2]
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ヘッドボードに背中を預けたナマエは、手の中にある文庫本の頁を捲った。
この、紙が擦れる音が好きだ。
物語は佳境に差し掛かりつつあった。

朝から互いに三度ずつ果てたセックスの後、後始末を終えたベッドの上で秋山はピロートークの最中唐突に寝落ちた。
当直後であったことを考えれば、至極当然の展開である。
一方のナマエは朝までたっぷり眠った後だったため眠気を感じることもなく、しばらく余韻に身を委ねてから起き上がった。
偶然にも読みたかった新刊がヘッドボードに置きっ放しになっていたため、ベッドに座って読み耽ること二時間半。
秋山の静かな寝息をBGMに読書というのは、存外悪くない休日の過ごし方である。
後は手元にカフェオレがあれば完璧なのだが、わざわざ立ち上がって用意する気分にはなれなかった。
と言うよりも、物語の世界観に引き込まれ、中断するには惜しかったのだ。
ナマエが長年贔屓にしているこの著者は、刊行される全ての作品が悉く映像化されるような、非常に有名なミステリー作家である。
一度読み始めてしまうと、最後まで一気に読破したくなるのはいつものことであった。
果たして犯人は誰なのか、最後にどのような展開が待っているのか。
仕掛けられた謎が一つひとつ解かれていくさまは、痛快なほど鮮やかだった。

時間も空腹感も忘れてナマエが読書に没頭していると、不意に、隣で秋山が身動いだ。
仰向けから横向きへと寝返りを打った秋山が、ナマエの太腿に触れる。
唐突な接触に流石のナマエも文字から顔を上げた視線の先、秋山は抱き枕よろしくナマエの太腿を抱き締めた。
腕の中にナマエの右大腿部を収め、満足げに微笑んだ秋山は、相変わらず深い寝息を繰り返している。
太腿の側面に額を擦り付けられ、ナマエは思わず苦笑を零した。
ナマエは未だ秋山のワイシャツ一枚を羽織っただけの格好のため、剥き出しの肌に触れる髪が擽ったい。
さながら、長毛種の大型犬に懐かれたかのようだった。
途切れた集中力に嘆息し、ナマエは八つ当たり気味に秋山の頭を軽く叩く。
しかしすっかり寝こけている秋山は、一向に目を覚ます気配がなかった。
それもどうなのかと思うが、ナマエも大概人のことをとやかく言えたものではない。
お互い、相手に対して随分と無防備になったものだ。
これも慣れだろうか。
毛並みを整えるように秋山の髪を撫で付け、ナマエは再び文庫本に視線を戻した。
太腿に掛かる寝息が若干擽ったくはあるが、無視出来る範疇内である。
纏わり付いてくる秋山をそのままに、ナマエは読書を再開した。

再開した、のだが。

「……おい、こら」

ほんの数行読み進めただけで、ナマエは再び文章から視線を外すことになる。
太腿に当たるのが寝息や毛先だけであれば黙殺も出来たのだが、なぜか完全にそうではないものが触れているのだ。
移した目線の先、秋山はナマエの太腿に唇を寄せ、明確に口付けていた。
当の本人は眠りの中なのだが、唇だけが意思を持っているかのように吸い付いてくる。
まるで赤子が母親の乳を吸うように、当たり前とばかりに。
どんな吸啜反射だと呆れ、ナマエは秋山の頭を小突いた。
この甘ったれめと口の中で悪態を転がしてみても、状況は変わらない。
執拗にキスを繰り返されては、事件を追っていた刑事が殺された無念のシーンも台無しである。
ナマエは嘆息し、シーツの上に放ってあった栞を挟み込んでから本を閉じた。
力尽くで頭を退かさない辺り、どちらが甘ったれか分かったものではない。
随分と腑抜けた己を内心で嘲笑しながら、ナマエは秋山の鼻を指先で摘んだ。
流石の秋山もその攻撃を無視して眠れるほど間抜けではなかったらしく、ぐっと眉間に皺を寄せた後、瞼を持ち上げる。
指を離してやると、秋山は寝惚け眼を瞬かせた。
覚醒と、現状の把握に数秒。
ナマエを見上げた秋山は、幾分か含羞を滲ませた笑みを浮かべた。

「すみません、寝てしまいました」
「うん、それは何の問題もないんだけどさ」
「……夢を、見ていた気がします」
「夢?」
「はい。なんだったかな……犬猫のお腹に顔を埋めたような……いや、もっとこう、美味しいような……」

ぼんやりと夢の内容を反芻し始めた秋山に、ナマエは内心で犬は君でしょうがと言い返す。
人の待望の読書時間を邪魔しておいて呑気なことだと、秋山の腰の辺りを軽く足蹴にした。
その勢いのまま、ナマエはベッドから足を下ろす。
こちらも念願のコーヒータイムにしようと考えてのことだったが、今日の秋山はとことんナマエの計画を台無しにする才能に溢れていた。
寝起きとは思えないほど俊敏かつ力強く腰を掴まれ、そのまま再びベッドに引き戻される。
シーツに背面ダイブしたナマエは、その上に覆い被さってきた秋山を思わず睨み付けた。

「だめ」

ナマエを見下ろした秋山が、甘えた声音でナマエを咎める。
片方だけ覗いた瞳に浮かぶ欲情の色に気付かないふりをして、ナマエは溜息を吐いた。

「せっかくの非番なんだから」

秋山の微笑が見えたのは一瞬で、すぐさまその顔はナマエの首筋に埋められる。
そのせっかくの非番にナマエがやりたいと思っていたことを徹底的に邪魔している自覚があるのか否か、秋山はぐりぐりと鼻先を擦り付けてきた。
咄嗟にその後頭部を引っ叩きかけたナマエの右手はしかし、直前で秋山の背に回される。
ナマエの口から「まったく」と、彼我のどちらに対してか判断しかねる悪態が漏れた。

「もうちょっとだけ」

耳元に、秋山の声が吹き込まれる。
そういえば最近、時折秋山の口調が敬語から崩れるようになった。
これもまた、慣れたということなのだろう。
だがこの件に関してはもう一つ、別の原因があることをナマエは知っていた。
例の、ストレインによる一時的な年齢の退行である。
自身の過去を露呈させるという、本人からしてみれば羞恥で死ねるような事件の後から、秋山はナマエに対しての喋り口調を幾分か大雑把にすることが増えた。
勿論仕事中は、決して必要ではないのに相変わらず以前の関係性を引きずって極めて丁寧な応対をするが、プライベートな時間になるとこうして敬語が外れる瞬間というものがあるのだ。
それはベッドの中であったり、甘えたい時であったりと様々だが、そういう時の秋山は総じてナマエを言い包めようとしている場合が多い。
つまりそれは秋山の中に、あのたった半日ほどの出来事が深く根付いている証拠だった。
ナマエにしてみれば、人生で稀に見るほどの大失態である。
異能の被害を被ったというだけですでに遺憾極まりないというのに、さらに、自らの幼少期を曝け出したのだ。
しかもそれが、二十七年という人生の中で最も自身が不安定だった、謂わば黒歴史の一部だというのだから事態は最悪の一言に尽きた。
世界を悉く斜めに見て、一丁前に大人ぶり、不信感と虚勢だけで生きていたような時代など思い出したくもなかったというのに、あろうことかそれが現在の恋人に露顕したのだ。
とんだ羞恥プレイである。
さらに秋山がそれを人生における苦笑必至の一頁と捉えず本気で感情移入などするものだから、居た堪れなさは増すばかりだった。
幼き日のナマエの姿はなぜか秋山に、これまで以上の庇護欲を植え付けてしまったらしい。
ナマエにしてみれば、災難と言うほかなかった。

「はいはい、もうちょっとね」

だが今にして思えば、これで良かったのかもしれない。
恋人という間柄の下に上下関係の基盤が出来上がっていたせいで遠慮がちだった秋山が、多少なりとも余裕なり自信なりを持てたのであれば、結果としては悪くないのだろう。
流石にまだ呼び捨てにはされないが、本当は敬語も敬称も必要のない関係性なのだ。
そういう意味では、秋山が一歩前進するための良い切欠になったと言っても過言ではない。
その代償の大きさについては、ナマエが目を瞑れば済む話である。

「………もうちょっとの先も、いいですか?」

とは言っても、対等な立場なのだと秋山が真に理解するまでにはまだまだ時間が掛かるのだろう。
幸い、長期戦には慣れている。
その日を気長に待っていようと、ナマエは秋山の耳に柔らかく噛み付いた。

「駄目って言っても、するくせに」

だって、秋山は待っていてくれたのだから。






致命的安寧
- あの頃の私は、きっとこれを幸福と呼んだ -



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