貴女に捧ぐこの胸いっぱいの愛を[8]
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真っ黒な空に浮かぶ月、その下に広がる東京の夜景。
それらを眺める、白いバスローブ姿のナマエ。

「ナマエさん、」

秋山は重いガラス戸を開け、バルコニーに出た。
手摺に腕を乗せて地上を見下ろしていたナマエが振り返る。

「どうぞ」
「ありがと」

冷えたミネラルウォーターのペットボトルを手渡し、秋山はナマエの隣に並んだ。
逆上せる寸前まで熱くなった身体を撫でる夜風が気持ち良い。
水を何口か飲んで蓋を閉めたナマエの手からペットボトルを受け取り、秋山はもう一方の手でナマエの髪に触れた。
タオルドライをしただけなので、まだその髪は湿っている。
梳くように指を差し込んで、そのまま蟀谷の辺りの髪を掻き上げた。
気持ち良さそうに顎を上げたナマエの唇を軽く啄ばみ、親指の腹で目元をなぞる。
化粧を落として少し幼くなった表情が、秋山の庇護欲を擽った。
ナマエの化粧は基本的に薄付きのため、落として素顔になっても大差はない。
女性の嗜みとして毎日必ず化粧をしているのだろうが、元々その必要もないほどに整った顔立ちと肌理細かな肌なのだ。
それでもやはり、目元は化粧を落とすとどこか幼いような、あどけない印象になった。
その柔らかな眦にキスを落としてから、夜景に視線を戻す。
ナマエの身体を包み込むよう背後から抱き締めて、しばらく、眠らない街を眺めた。

「そういえば、話って何だったんですか?」
「ん?」
「さっき、言ってましたよね。話したいことがあったのに、って」

秋山が欲望に流されて遮ってしまった、ナマエの発言である。
ああ、とナマエが思い出したように笑った。

「別にわざわざ改まってするほどの話じゃないよ。ただ、二年経ったね、って」

秋山の、ナマエを抱き締める力が強くなる。
胸臆が甘く疼いた。
ともすれば、零れる吐息が震えそうになる。

「そうですね。今日で丁度、丸二年です」

憶えていてくれた。
一年前の今日に約束した通り、ナマエはちゃんと、交際の記念日を忘れないでいてくれた。
この日に公休を合わせたと聞いた時から恐らくそういうことだろうと分かってはいたが、こうして実際に言葉にされると嬉しさは倍増した。

「この一年も、ありがとうございました」

忙しい一年間だった。
特に後半は、第一次御柱タワー襲撃事件から始まった対緑のクラン関連で多忙と混乱を極めたと言っていい。
その渦中においてもナマエは、常に秋山のことを気にかけてくれていた。
こうして、忘れずに記念日を祝おうとしてくれた。

「こちらこそ」

ナマエの手が、秋山の腕に触れる。

「プレゼント、用意したの」

そして落とされた衝撃的な発言に、秋山はナマエを抱き締めたまま硬直した。

「………だれ、が」
「私が」
「…………だれ、に?」
「君に」
「………え……?」
「なんで私と君の記念日なのに他の誰かにプレゼントあげなきゃなんないの」

そうではない。
そういうことではない。

「……だって、そんなの、」

初めてだ。
昨年の誕生日、ナマエは確かにプレゼントとして秋山に手紙を書いてくれた。
だがそれは、秋山が強請ったからだ。
まさかナマエが秋山に内緒で自主的に何かを用意してくれるなんて、思ってもみなかった。

「それに、今年はいらないって、俺には、」

そう、ナマエが言ったのだ。
それこそ公休日の話が出る少し前に、もし今年も記念日のプレゼントとか考えてくれてるなら、今年はなくていいよ、と。
当然プレゼントを贈るつもりで考え始めていた秋山は、実はかなり落ち込んだ。
だが、いらないと言われては渡せない。
その代わりに、今泊まっているこの部屋の宿泊代は事前に秋山が全額支払っていた。
今年はこれがプレゼントの代わりだと自身を無理矢理納得させていたのに、ナマエだけはきちんと形に残る物を用意してくれたのだろうか。

「うん、今年は私から。だって、去年渡せなかったから」

秋山の腕の中で振り返ったナマエが、柔らかく苦笑した。

「ナマエさん……」

貰う前からもう嬉しい。
何を用意してくれたのか、それすら知らないというのに、一生の宝物になると確信した。
仮にそれが三本百円で売っているボールペンだとしても、大切に仕舞っておくだろう。

「部屋、戻ろ」
「はい」

リビングルームに戻り、ナマエがソファに置かれたバッグから取り出したのは、背の低い円柱状の黒いケースだった。

「はい、どーぞ」

まるで処理済みの書類を手渡すような気軽さで差し出されたそれを、秋山は両手でそっと受け取る。
ブランドロゴを見て、すぐにそれが腕時計だと分かった。

「開けて、いいですか?」
「それはもう君のだよ」

ナマエに促され、秋山は何の装飾もないシンプルなケースを慎重に開ける。
現れたのは秋山の確信した通り、腕時計だった。
しかし、ただの腕時計ではない。これは。

「ミルスペック。空の上でも海の底でも、行きたい放題。悪くないでしょ?」

国防軍でも正式採用されているが高額のためごく一部の精鋭部隊にしか支給されていない、謂わば隊員たちの憧れである超高性能ミリタリーウォッチだった。
GPS機能及びデータ通信機能搭載で、タッチスクリーンやフラッシュライトをはじめ、千時間計測可能な百分の一秒ストップウォッチ、タイドグラフ・ムーンデータ計測機能、コンパス、温湿度計、気圧計、水深計、一万メートルの高度計測といった精密な機能性に加え、防塵防泥構造で水深七百メートルの飽和潜水にも耐えられるという圧倒的な耐久性。
さらに、その厖大な機能と対衝撃性能を可能にするとは思えないほどコンパクトかつシックなデザイン。
これ一つでフォーマルな式典から戦場の最前線までどこにでも行けると、軍では大変好評だった。
しかしそれだけ優れたモデルであれば相応に高額で、一兵卒が気軽に買えるような代物ではない。
ゆえに皆、この腕時計を持つ精鋭部隊の隊員たちに羨望の眼差しを向けたものだった。
自分もいつかは、と。
この腕時計は、そのものが持つ素晴らしいスペックもさることながら、強さの象徴でもあった。

悪くない、なんてものではない。
これは、そう易々と人に買い与えるものではない。

「……ナマエ、さん……」
「あれ、だめ?色気なさすぎた?」

困ったように苦笑したナマエを見て、感動に打ち震え言葉もない秋山は千切れそうなほど激しく首を横に振った。
正直、金額を考えると畏れ多い。
ナマエの正確な給与を秋山は知らないし、貯金なども含めればナマエにとっては充分に許容範囲内だったのかもしれないが、秋山の収入を基準にすればかなり気合いの入った買い物ということになるはずだった。
少なくとも、給料何ヶ月分、という単位である。
それを秋山のために使ってくれたというのだから、秋山としては驚くしかない。
だが恐らくナマエにとって、金額はさしたる問題ではなかったのだろう。
ナマエはもっとシンプルに考えて、この時計を秋山に、と思ってくれたのだ。

「結構似合うと思うんだけどなあ」

秋山がかつて憧れた強さの象徴、精鋭の証。
それをナマエが、秋山に相応しいと言って、くれたのだ。
これ以上嬉しく、そして誇らしいことが他にあるだろうか。
身の引き締まる思いだった。
石盤は破壊され、騒動の後始末も収束に向かいつつあるが、油断してはならない。
そして忘れてはならない。
佩剣者たる責務を、守ると誓った青臭くも尊い初心を、そしてナマエの信頼を。

「ナマエさん、」
「ん?」
「ありがとう、ございます……っ」
「うん。気に入ってくれた?」

秋山はケースから黒を基調とした腕時計を取り出し、左手首に嵌めた。
かつて憧れたものが、自らの手首に存在するという違和感。
まだ、そこに馴染んではいなかった。

「もっと、これが似合うような男になります、絶対」

顔を上げて見つめた先、ナマエが満足げに笑う。
この瞬間のことを一生忘れないだろうと、秋山は思った。



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