甘い永遠を願った[1]
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R-18









二月十四日、午後四時十分。

その日の勤務を終え寮へと戻る道すがら、秋山はメッセージの着信を告げるタンマツに視線を落とし、送り主の名に驚き息を詰めた。
規則正しく大理石の廊下を叩いていた靴音がぴたりと止まる。
秋山は目の錯覚でないことをしつこいほど何度も確かめ、震える指先でその内容を表示させた。
心臓の鼓動が痛いほど胸骨を殴打する。
最愛の恋人からタンマツに連絡が来たのは、実に一ヶ月半ぶりのことであった。

"あと三十分くらいで戻るから、もしこの後予定がなかったら私の部屋で待ってて"

現在、海外のストレイン対策についての会議に参加するため宗像と共に外務省に赴いているはずのナマエから届いたメッセージは、秋山の鼓動を一瞬止めるほどに絶大な威力を孕んでいた。
間違いなく、仕事ではなくプライベートの誘いと分かる文面。
半ば呼吸困難に陥った秋山は、喘ぐように無理矢理喉を震わせて画面を見つめた。
衝撃と喫驚、遅れて襲いかかるのは、恐怖と安堵。
その相反する感情に唇を震わせ、それでも秋山が返す応えは一つしかなかった。
分かりました、という簡潔な一文を打ち込むのになんと一分以上の時間を要し、秋山はようやく返信を終えたタンマツをきつく握り締める。
ともすれば震え出しそうな脚を叱咤して、秋山は一先ず自室に急いだ。

制服から私服に着替え、足を運んだ女子寮。
ポケットから取り出した合鍵を鍵穴に挿すという単純な作業さえ、手が震えて上手くいかなかった。
やっとのことで部屋に足を踏み入れた秋山は、そこで、鼻孔を満たす匂いが馴染んだナマエのものだけであることに気付く。
煙草の匂いはしなかった。
そのことに、泣きたくなった。
しかしまだ安堵するには早いことを、秋山はよくよく理解している。
秋山はスニーカーを脱いで揃え、誰もいないとは分かっていても物音を立てないようそっと短い廊下を進んだ。
この部屋に入ったのは、いつぶりだろうか。
最後に秋山がここでナマエと過ごしたのは、一ヶ月半どころか恐らく二ヶ月以上前のことだった。
部屋の様子は、以前と変わっていない。
相変わらず私物の少ない室内は整然と片付けられ、ベッドなど使用した形跡もないほどに整っていた。
ナマエが退院してから四日ほど経っているが、まさかきちんとベッドで眠っていないのだろうか。
満身創痍で病院に運び込まれ、十日間も面会謝絶状態だった人の退院直後として、それはあまりに過酷すぎる。
綺麗すぎるコンフォーターをそっと撫で、秋山は心配に胸を痛めた。
秋山はまだ、退院後のナマエに一度も会っていない。
ナマエは退院した翌日からもう仕事に復帰しているそうだが、生憎とセプター4全体が多忙を極めており、顔を合わせる機会には恵まれなかった。
だから脳裏に浮かぶのは、二週間前、窮地に陥った秋山と弁財を助けるためにヘリから飛び降りたナマエの、血塗れになった姿だ。
平然とした表情に加え、まるで負傷なんてどこにもないかのような態度で颯爽と現れ、常と全く変わらない戦いぶりを発揮し二人をサポートしてくれたが、ナマエはあの時すでに相当の深手を負っていた。
しかしナマエは、戦闘後にその容態を問い詰めた秋山をさらりと躱し、その後も六時間に渡って各地で展開する部隊の援護に回り、最終的に深夜の道端で突然糸が切れたかのように倒れたという。
その際近くにいた宗像に抱えられて病院に運ばれたと聞いた秋山は、文字通り血が滲んで顎を伝うほど唇を噛み締めたのだ。
また、ナマエを助けることが出来たのは自分ではなく宗像だったという事実に、忸怩と嫉妬で狂いそうになった。
宗像による謎の敗北宣言など、関係ないのだ。
重要なのはナマエの想いであり、ナマエの選択であり、そして実際に彼女を支えることが出来るのは誰かという点だ。
いかに都合よく解釈しようとしても、敢えて勝ち負けで表現するならば間違いなく宗像に分があった。
秋山はナマエの助けになるどころか、恐らく誰よりも、彼女を傷付けてしまったのだから。
一ヶ月以上経った今でも、秋山はクリスマスの朝に自らが犯した罪を思い返すと吐き気を催すほどに後悔する。
正確に言えば、回想などせずとも常に罪悪感が脳裏にこびり付いたまま剥がれてはくれなかった。
それは必至であり、また必須でもある。
同意も得ないまま、拒絶を膂力で強引に捩じ伏せて恋人に性行為を強いたのだから、あれは強姦だった。
大丈夫だから気にしなくていい、とナマエはその場を収めてくれたが、それが本心だとは到底思えないし、万が一そうであったとしても秋山は絶対に己を許せない。
嫉妬に狂い、身勝手な渇望で、最愛の人を傷付けた。
信頼を裏切り、踏み躙ったのだ。
ナマエの匂いに満ちたこの部屋はより一層秋山の行為を責めるようで、秋山は崩れ落ちるように膝をついた。

ナマエが秋山を自室に招いたということは即ち、何か話があるのだろう。
それは、あの残虐な朝のことか、それとも宗像に関することか、はたまた、今後の二人の関係についてか。
悪い方向にしか思考が働かないのは、当然のことだった。
気にしなくていいと言ってくれたのはあの場限りの嘘で、本当は秋山に幻滅したのかもしれない。
秋山よりも宗像を選びたいと、思っているのかもしれない。
そのような理由から、秋山と別れたいのかもしれない。
秋山を絶望に叩き落とす話題の候補など、いくらでも挙げることが出来た。
嫌だと縋る権利があるのか否か、秋山にはそれすら分からない。
人として最低なことをしておいて、そんな我儘は許されないのかもしれない。
それでも、秋山には耐えられないのだ。
ナマエが隣にいない人生など、秋山には一片の価値もない。
ナマエの恋人という座を失っては生きていけない。
そのためなら、今後その身体には指一本触れないと誓ってもいい。
何を交換条件にされたとしても、秋山はナマエを手放せなかった。
だから、例え何を許せなかったとしても、傍にいることだけは許してほしかった。
間もなく帰って来るであろうナマエに、それだけは懇願したい。
男としてどれほど情けなくても、無様でも、みっともなくても。
ナマエの隣という場所に代えられるものは、この世に一つとしてありはしないのだ。

秋山が自らを奮い立たせんと拳を握り締めたその時、部屋の外から鍵を開ける音が聞こえてくる。
弾かれたように立ち上がった秋山は、縺れる足を無理矢理前に出して玄関に向かった。
三和土の手前まで辿り着いたそのタイミングで、外側からドアが開かれる。
そこに立っていたのは、二週間ぶりに目にするナマエの姿だった。

「……ただいま」

秋山の姿を上から下まで眺めたナマエが、やがてゆっくりと言葉を紡ぐ。

「……お、かえり、なさい」

酷く喉が渇いて、舌が張り付くようだった。
ぎこちない挨拶に、ナマエが静かな苦笑を零す。
その微かな笑みと首に巻かれた白い包帯を見て、秋山は矢も盾もたまらずナマエを抱き締めそうになり、ありったけの理性で以てその衝動を抑え込んだ。
何が、必要とあらば今後一切触れないと誓ってもいい、だ。
その姿を前に自制することなど到底出来ないくせにと、秋山は内心で己を嘲笑った。

「用事とか、大丈夫だった?」
「え、ーー あ、はい、勿論」

ナマエにブーツを脱ぎながら問われ、秋山は言葉につかえながらも答えを返す。
そう、と短く相槌を打ちながら、ナマエが上体を起こした。
そして唐突に、秋山の眼前に何かを突き出す。
秋山はその時になって初めて、ナマエが左手にビニール袋を提げていたことに気付いた。

「はい、これ」
「え……っと、なん、ですか……?」

中身に見当がつかず戸惑いながらも、差し出されたそれを受け取る。

「見れば分かるよ」

ナマエはそう言って、秋山の隣を擦り抜け部屋に入っていった。
残された秋山は廊下に立ち尽くしたまま、一先ず中身を確かめようとビニール袋の中を覗く。
そして、息を飲んだ。

「……っ、ーーぁ、……ナマエ、さん……っ」

勢い良く振り返った先、ナマエもまた、秋山の方に視線を向けて佇んでいる。
名前を一度呼んだきり言葉を失った秋山が目を見開いた視界の中で、ナマエはどこか申し訳なさそうに、しかし柔らかく微笑んだ。

「遅くなって、ごめん」

必死で首を横に振る秋山の手の中で、ビニール袋が音を立てる。
そこには、ふた切れでセットになったコンビニのレアチーズケーキが入っていた。



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