[14]かけがえのない大切な青
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仄かに香る香木と、ナマエと同じシャンプー。
そこにもう一つ、よく分からないけれど体臭みたいなものが混じって、それは宗像の匂いになる。
すん、と嗅いで、ナマエは朝を感じた。
硬い胸元に一頻り額を擦り付けて眠気と格闘してから、ようやく被った布団の外に頭を出す。
柔らかな朝日を背景に、これまた柔らかく笑う宗像がいた。

「おはようございます、ナマエ」

ああ、やはりこれがいい、とナマエは思う。
きっと、何度でも思うのだろう。
恐る恐る窺うような視線ではなく、当たり前とばかりに迎えてくれる笑み。
それでいいのだ。
だって、これは当たり前なのだから。

「……はよ、ございます、」

鳴らなかったアラーム。
いつもより少し遅い朝。

「誕生日おめでとうございます、ナマエ」

蕩けるように、宗像が笑った。

五年前の今日、宗像に拾われた。
生まれた日など知らなかったナマエに、誕生日をくれた。
四年前の今日、いまも常に身につけているチョーカーを、生まれて初めての誕生日プレゼントとして貰った。
その翌年から、宗像は毎年この日をナマエの我儘を聞く日だと言って甘やかしてくれる。
ナマエにしてみれば宗像は年がら年中ナマエの好きなようにさせてくれているので、改めて押し通したい我儘など何もないのだが、普段はあまり言わないことを言うようにしている。
その方が宗像が喜ぶことを、知っているからだ。

今年も、宗像はこの日にナマエと二人分の有休をもぎ取った。
明らかな職権濫用だが、ナマエにそれを非難するつもりはない。
間断なく注がれる愛情のおかげで聞いてほしい我儘など特にないが、この日を宗像と二人で過ごせることには意味があるのだ。
誕生日なんて知らずに在った十七年を塗り替える、宗像との優しくて暖かい日々。
また一年を共に生きたのだと二人で振り返る日が、ナマエは嫌いではなかった。

そして特に今年は、約束がある。

「水族館、行きますよね?」
「…ん、行きたい、です」

落ちかけた青い大剣の下で、強請った。
誕生日には水族館に行きたいと、我儘を言った。
奇しくもそれは、ナマエが生まれて初めて口にした我儘と、全く同じだった。

「はい。ではまずは朝ごはんにしましょうか」
「………」
「チョコレートをかけたフレンチトーストにしますから、ちゃんと食べて下さいね?」

ナマエの無言を正しく理解した宗像に釘を刺され、ナマエは小さく頷いた。
いい子ですね、と頭を撫でられる。
やはりこの手が一番好きだと思った。


米浜の水族館に連れて行ってもらうのは、これで四度目だ。
ナマエは殊更動物が好きなわけではないが、青い水槽の中で静かに揺れている生き物を見ると、何となく安心する。
なぜかと聞かれると、理由はよく分からなかった。
いつだったか、もしかしたら水槽の中の生き物に自分を重ねたのかもしれない、と考えたことがある。
青に包まれて自由に、しかし水槽という限られた世界の中で不自由に生きる姿。
そこに自分を当て嵌めたのかもしれない、と。
だが、思い返してみれば、ナマエが初めて水族館という場所に来たのはまだ宗像が青の王になる以前のことだった。
ナマエは王の色に関係なく、宗像に青を見出していたのだ。

確かに青が似合う人だと、ナマエは隣を歩く宗像を眺めて思う。
静かで少し冷たく見えて、でも実は世界を包み込む美しい色。
全てを生み出し、そして全てを飲み込む海の色。
ナマエにとって宗像の傍は、息がし易い場所だった。
それは、サンクトゥムがどうのとか、クランの属領がどうのとか、そういうことではない。
王であろうとなかろうと、宗像の手が生み出す世界はいつだってナマエに優しかった。
その中を、ナマエはまるで海月のようにゆっくりと揺蕩っていられるのだ。


平日の昼間、一般的な春期休暇もすでに終わっている時期らしく、館内は比較的閑散としている。
それでも宗像は、まるで逸れないようにとばかりにナマエの手を握り締めていた。
ナマエのペースに合わせて水槽を見て回る宗像は、随分と機嫌が良さそうだ。
宗像にとって水族館が興味を引かれる対象なのか否か、ナマエの知るところではないのだが、少なくとも楽しんではいるのだろう。
時々宗像がこっそりとタンマツのカメラを向けてくるので、気付いたナマエは顔を背け、その度に宗像は残念そうに苦笑する。
以前ほど写真が苦手なわけではないのだが、何となく照れ臭い気がするのだ。
それに、どうせ映るなら一人ではなく二人が良かった。
それもまた、気恥ずかしさに邪魔をされて言葉にはならないけれど。

「どうしました、ナマエ?」

ナマエの視線に気付いて振り向いた宗像は、緩んだ目元を誤魔化そうともしなかった。
何でもないと頭を振れば、小首を傾げた宗像が繋いだ手とは反対の手でナマエの頬を撫でる。
見目麗しい宗像はどこに行っても大層目立つのだが、本人は衆目というものに全く頓着しないらしく、いつも所構わずナマエに触れた。

「……君は本当に、いつでも付けていてくれますね」

宗像の指先が、ナマエの首筋をなぞる。
そこには当然、宗像に贈られた青いチョーカーがあった。

「礼司さんが、外すなって、言ったんですよ?」
「ええ、そうなんですけどね」

皮革越しに指の動きを感じていると、宗像がやんわりと苦笑する。

「まあ、言われなくても、外しません、けど」

ナマエも片手を持ち上げ、最早癖となった所作でチョーカーに触れた。
宗像が事ある毎に触れるように、ナマエもまた頻繁にこのチョーカーをなぞるのだ。

「これは、礼司さんの色、ですから」

そう言うと、首元で宗像の指が微かに跳ねた。
どこか戸惑ったような視線が、ナマエを見下ろす。

「……私はもう、青の王ではありませんよ」
「……知ってます、けど?」

唐突に事実を主張され、ナマエは首を傾げた。
今更、そんなことは言われずとも知っている。

「ええ。ですから、厳密に言うとこの色はもう、私の色ではないのですが、」
「はい?……なに、言ってるんですか?」
「ですから、これはもう、」
「礼司さんの色ですよ」

また何か小難しいことを考えて憂慮しているらしい宗像の言葉を遮り、断言した。

「これは、礼司さんの色です」

僅かに離れた宗像の指を掴み、再びチョーカーに押し当てる。

「青の王がどうとか、クランの色がどうとか、セプター4の、制服がどうとか、じゃなくて、」

それらは全て、後から付いてきたものだ。
五年前、ナマエが出会ったのは青の王でもなければセプター4の室長でもなく、ただの宗像礼司だった。

「礼司さんが、私にくれた、礼司さんの創る、世界の色です」

いつかナマエが独り占めしたいと希うのも、ただの宗像礼司だ。

「だから、一生、外しません」

水槽の色を映し込んだ宗像の瞳が、青く揺れた。
当然のことを言ったに過ぎないのだが、何かが宗像の琴線に触れたらしい。
唐突にぎゅっと抱き締められ、ナマエは宗像のジャケットに顔を埋めることとなった。

「……君は、ほんとうに……」

頭の上から、どこか幼い声音が落とされる。
ナマエの背を掻き抱く腕は、少し震えていた。

「君には敵いませんよ、本当に」

いつも私が欲しい言葉をくれますね、と宗像が囁く。
ナマエとしては、何も意図していないのだ。
だから、そう言われてもよく分からない。

「ありがとうございます、ナマエ」

でも、宗像がそれでいいのならば、それでよかった。
ナマエは宗像のように聡いわけではないし、弁が立つわけでもない。
難なくナマエの感情を掬い上げ、包み込んでくれる宗像のようにはなれない。
与えられてばかりで一つも返せないことを、もどかしく思っていた。
だが、今きっと、宗像はナマエの言葉に喜んでくれたのだ。
ナマエが向けた言葉は、確かに宗像に届いたのだ。
救うなんて大層なことではないかもしれないが、少しは役に立ったのであればそれで充分だった。

「……だから、水族館って、好き」
「はい?」
「礼司さん、みたいだから、好き」
「ーー ふふっ、そうですか」

ナマエの頭に頬を当てて、宗像が笑う。
柔らかな低音に擽られ、ナマエもまた口元を緩めた。

「それは、私のことも好きということですか?」
「……それ、聞く必要、あります?」

思わず顔を上げれば、宗像が期待のこもった眼差しで見つめてくる。
言うまでもないだろうと黙り込めば、次第に宗像の顔が拗ねたように歪むので、ナマエはそれを可笑しく感じた。

「っ、ふ、ふふ……っ、あははっ、」

零れた笑い声に、宗像が目を瞠る。
盛大に驚いた表情でナマエを見下ろし、やがてくしゃりと泣き出しそうにも見れる様子で破顔した。

「……ねえ、ナマエ」
「はい」
「誕生日に欲しいものが決まりました」

それは唐突だったが、ナマエは宗像の辿った思考を正確に理解する。
誕生日に水族館に行きたいと強請った時、宗像にも誕生日に欲しいものを考えておくよう言ったのだ。
何ですか、とナマエは首を傾げた。
これまでに、宗像から誕生日プレゼントのリクエストを受けたことなど一度もない。
ナマエの誕生日は何が何でも祝おうとするくせに、宗像は自分の誕生日をあまり気にしないのだ。
だから、宗像が自ら言い出してくれたことが嬉しかった。

「私の誕生日に、またここでデートをして下さい」
「……はい?……ここでって、水族館ですか?」

ええ、と宗像に微笑まれ、ナマエは戸惑う。
勿論嫌ではないのだが、それでは宗像ではなくナマエの誕生日祝いになってしまう。
何か他に、宗像自身が望む場所はないのだろうか。
しかし宗像はナマエの困惑を他所ににこにこと笑うだけで、要求を変えるつもりはない様子だった。

「……いいです、けど、……なんで、ですか?」

せめて納得のいく理由を聞かせてほしい、と見上げれば、宗像が楽しげな笑みを柔らかく緩める。

「それはね、ナマエ。君が声を上げて思い切り笑う姿を、もっと見たいからですよ」

一呼吸分置いてからその意味を理解し、ナマエは苦笑した。
だから馬鹿なんだ、ともう何度目かも分からない台詞を胸中に零す。
宗像は本気でそう考えているのか、それともナマエが今から返す言葉を先読みした上でわざと言っているのか。
後者だとするならば性格の悪さに辟易するところだが、悔しいことにナマエの中には答えが一つしかなかった。

「………べつに、礼司さんがいるなら、場所とか、関係ないです」

呟くように返した言葉に、宗像が僅かな喫驚を見せる。
どうやら前者だったらしいと、それはそれで呆れつつもナマエは笑った。

「でも、また来ましょう、ね」
「……ええ、約束です」

指先を絡めた宗像が、幸せそうに微笑む。

「……あいしていますよ、ナマエ」

眦に、キスが一つ。
宗像は小さく囁いて、ナマエの手を堅く握り締めると再び歩き出した。



いつか、掲げた大義を貫き、理想の世界を創り上げた、その暁に。
世界の片隅に、二人だけのもう一つの世界を作りたい。
だから、それまではまだ、ここで戦おう。

この、世界にたった一つの、青と共に。






その命で紡ぐ明日に
- 二人の愛すべき世界があらんことを -









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