[1]さよならは言えなかった
bookmark


あれは、宗像が官邸に呼び付けられ、室長職解任を言い渡された日の夜だった。

「君に一つお願いがあります、ナマエ」

何度目かなど数えられるはずもない、二人きりのベッド。
宗像の身体の上にぺったりと張り付いたナマエが、胸元に埋めていた顔を上げた。

「もう間もなく石盤が本格的に解放されることは、君も分かっていますね?」

風呂上がりの僅かに湿った髪の毛を揺らし、ナマエが頷く。
宗像はシーツから腕を持ち上げ、右手をナマエの頬に添えた。

「関東を中心に日本中、いえ、世界中に異能の力は拡大します。そうなると、対ストレイン組織であるセプター4の不手際が疑われる可能性は極めて濃厚と言えるでしょう」

不穏な台詞を吐きながら、宗像はどこまでも優しく白皙の頬を撫でる。

「暴動が起きてもおかしくはありません。隊員たちは皆優秀ですが、大量に発生したストレインの対処には少々手を焼くことになる。屯所の機能が麻痺することも考えられます」

ナマエは心地好さそうに目を細め、まるで喉を鳴らす猫のように宗像の掌に擦り寄った。

「そこで君にお願いしたいのは、安萬の起動です」

正確には、安萬派出所。
宇都宮から更に十キロメートルほど北上した位置にある、法務局戸籍課第四分室管理下の分署だ。
しかし、実際にその施設が使用されたことは一度もない。
安萬派出所は、万が一首都圏でダモクレスダウン等の大災害が発生し、椿門が壊滅した際にセプター4の屯所を移すための、謂わば予備施設だった。
三年前、東京から百キロメートル以上の距離を取った位置にその施設を建設させたのは、他でもない宗像である。

「安萬の各システムを起動させておけば、万が一椿門が麻痺してもセプター4の機能は維持出来ます」

静かに、丁寧に、頬骨の上を親指でなぞった。

「しかし、私は室長職を罷免され、隊員たちは屯所での待機を命じられることになります。私が動かせるのは、私兵である君だけです」

平然とした口調を意識する。
目を逸らすことなく、当然のことのように命じる。

「石盤の解放が確認出来次第、君は安萬に移動し、全システムを起動させて万全の体制を整えて下さい」

宗像の命令に、ナマエはしばらく押し黙った。
真っ直ぐな双眸に射抜かれ、宗像もまた黙したまま目線を合わせる。

「……礼司さん、は?」

やがて、ナマエは夜のしじまに溶けるような声音で呟くように訊ねた。

「私はjungleの幹部を片付けてから合流しますよ」

宗像は、微笑を浮かべてその問いに答える。
ナマエは再び唇を閉ざし、さらに数秒間宗像を見つめてから、やがて小さく頷いた。

「……分かりました」

命令を承服したナマエが、元のように宗像の胸に頬を落とす。
宗像は「よろしくお願いしますね」と囁き、ナマエの頭を撫でた。

その夜、仕事の話はそれ以上しなかった。
ナマエは宗像の上に寝そべったまま自らの手よりひと回りもふた回りも大きな手を弄り、宗像はそんなナマエの髪をもう一方の手で梳いていた。

「……ねえ、ナマエ」
「なん、ですか?」

互いの呼吸と、鼓動と、静かな声音。

「いいえ、何でもありません」
「………変な礼司さん」

小さく笑ったナマエが、愛おしかった。
堪らなく、愛おしかった。

「ふふっ、すみません。このところ忙しかったですからね。久しぶりに君とこうして一緒に過ごせて嬉しいのですよ」

王の勘、とでも呼ぶのだろうか。
宗像は漠然と、石盤が本領を発揮するのはもう間もなくだと感じ取っていた。
だからこそ、共に過ごす時間を作った。
これが最後の夜になるかもしれないと、知っていた。

「君と出会ってから、もうすぐ五年ですね」
「……そ、ですね」

五年前の春、宗像はナマエを見つけた。
最初は興味本位で拾った仔猫が、いつの間にか宗像にとって何よりも大切で掛け替えのない存在になっていた。
この冬が終われば、ナマエは二十二歳の誕生日を迎える。
祝えないかもしれないその日を思い、宗像は僅かに眉を下げた。

「ねえ、ナマエ」
「……はい?」

顔を上げかけたナマエの後頭部を優しく押さえてその動きを制し、宗像は万感の想いを込めて囁く。

「……ありがとうございます、私と出会ってくれて」

唯一無二の、大切な子へ。
宗像を、宗像礼司として生かしてくれた、誰よりも愛おしい子へ。
宗像は手を滑らせてナマエの髪を掻き分け、首の後ろからチョーカーをなぞった。

「君のおかげで、私は幸せですよ」

だから、生きて下さい、と。
最後の言葉は音になることなく、宗像の胸臆に仕舞われた。
いつか、その刻が訪れることを知っていた。
王になったあの日から、知っていた。
それでも、宗像は願ったのだ。
許される限界まで、傍にいたいと。
だから今日までずっと、宗像はナマエを手放さなかった。

でも、もう、きっとこれが最後だ。


ナマエはその夜、いつものように宗像の隣に潜り込んで眠った。
宗像は布団をナマエの肩まで引き下げ、一睡もすることなくナマエの寝顔を見ていた。
やがて朝になると宗像はナマエが起きる前にベッドから抜け出し、最後に口付けを一つ落として椿門を後にした。

宗像が有する理性の全てで以て胸底に沈め込んだもう一つの、どこまでも尊く甘やかな切望には、目を瞑って気付かないふりをした。





「……あれが最後の会話になりましたか……」

崩落する青い剣を見上げ、宗像は小さく呟く。
走り続けた先の限界が、そこにあった。
飽和して溢れた力が、宗像の身体を電流のように纏っている。

「淡島君。その時が来たら、躊躇しないように」

読戸に向かうヘリコプターの中で、宗像はGPSによりナマエの現在地を確認した。
宗像の指示通り、ナマエは石盤の解放を確認すると同時に安萬へと向かったのだろう。
ナマエもまたヘリコプターで移動していることが、モニターの中を高速で移動する点によって明らかとなった。
セプター4が運用する戦闘ヘリは、最大時速約三百六十キロメートル。
今頃ナマエは安萬でシステムの起動に奔走しているはずだった。
仮に今ここでダモクレスダウンが起こったとしても、ナマエは巻き込まれない。
無論宗像は、剣を落とすつもりなど毛頭なかった。
そのために善条を随伴させたのだ。
結局、その役目を担うと宣言したのは突如現れた淡島だったが、仮に彼女が最後の最後で躊躇ったとしても問題はない。
天命が善条に剣を抜かせることは明白で、この場に彼がいる限り宗像の剣は地に落ちない。
しかし、この世界に絶対というものはあり得なかった。
御柱タワー襲撃事件で第二案が必要になったように、保険をかけておくに越したことはないと知っているから、宗像はナマエを遠ざけた。

何よりも、ナマエがいては走ることをやめてしまいそうだった。
青の王としての責務を棄て、ナマエと二人で生きる道を選んでしまいそうだった。
宗像は、最後まで戦うためにナマエを置いて来たのだ。

恨まれるだろうか、それとも泣かせてしまうだろうか。
ゲートの下を眺めながら、宗像はナマエに想いを馳せる。
例えば三年前なら、こんな方法は選ばなかった。
あの頃はまだ、ナマエには宗像しかいなかった。
しかし今、ナマエはセプター4という組織に自らの足で立ち、居場所を見つけている。
仮に組織が解体されても、築いた信頼は崩れないだろう。
ナマエはいつの間にか、宗像が嫉妬心を駆り立てられるほどに特務隊の面々と打ち解けていた。
彼らを受け入れ、そして受け入れられていた。
もう、ナマエは一人ではない。
だからこそ宗像は、この地の平穏を守らなければならなかった。

頭上に響く崩壊の音が、少しずつ大きくなっていく。
もう時間は残されていなかった。
最後に見たナマエの寝顔を思い出す。
あどけなく、穏やかで、幸せそうだった。
ナマエは傷付き、追慕に暮れるだろう。
一生消えない哀しみが、残ってしまうだろう。
生きてほしいと願うのは、宗像のエゴイズムかもしれない。

それでも、だ。
一緒に死んで下さいとは、言えなかった。
たとえナマエがそれを望んだとしても、宗像はナマエを自らの死に巻き込めなかった。
ナマエに、生きていてほしい。
生まれてからずっと施設に閉じ込められていたナマエが自由に生きられた時間は、宗像と出会ってからの五年。
まだ、たったの五年だ。
もっともっと、生きてほしい。
たくさんの愛情に包まれて、幸せになってほしい。
泣いてもいい、恨んでもいい。
それでもいつか立ち直り、歩き出してほしい。

「………生きて下さいね、ナマエ」

昨夜飲み込んだ希求を、遠い空の下にいるナマエに向けた。




prev|next

[Back]
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -