甘ったるい沖融[1]
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「ただいま帰りました」

ドアを開けた途端に鼻腔を満たした、ナマエの部屋の匂い。
肺一杯に吸い込んだ空気を吐き出すと同時に、いつも通りの笑みを浮かべた。

「おかえり」

キッチンから、ナマエがひょっこりと顔を出す。
短い廊下を三歩で玄関まで進んだナマエが、そのまま三和土に立つ秋山の方へ身体を寄せて口付けてきた。
突然のことに虚を衝かれた秋山は、驚いて目を瞑るどころではない。
一秒程で離れていく唇を視線で追いながら、秋山は指一本動かせずに固まった。

「……どう、したんですか……?」
「どうって、おかえりのキス。いつもしてるじゃん」

秋山から身体を離したナマエが、平然とした様子で返す。
確かに、どちらかが部屋を出る際、また部屋に帰る際に挨拶代わりのキスを交わすのは恒例だが、それはいつも秋山から求めていた。
ナマエはそれを受け入れこそすれ、こんな風に仕掛けてくれることは一度もなかった。

「ほら、もうすぐごはん出来るから」

棒立ちになった秋山を急かしながら、ナマエはくるりと背を向けてキッチンに戻って行く。
その後ろ姿を見送った秋山は、慌ててブーツから足を抜いた。
隊服の上着とベストをハンガーに掛けている間に、背後でテーブルの上に夕食が用意される。
振り返って見れば、今夜のメインディッシュは鯖の塩焼きだった。
ナマエが初めて手料理を食べさせてくれた時を思い出し、秋山は微笑む。
あの時は鯖をグリルで焼いている最中に号泣した秋山をナマエが慰め、そのせいで表面が少し焦げたのだった。
もちろん、今日の鯖には黒焦げなどなく、綺麗な焼き色がついている。
料理を一通り並べ終えたナマエが、最後にグラスと缶ビールを持ってキッチンから出て来た。

「明日遅番だし、たまには飲もうよ」

その提案に、秋山は頬を緩めて頷く。
五百ミリの缶ビールをそれぞれのグラスに注ぎ、テーブルの上でかちんと乾杯した。
独特の苦味と弾ける喉越しが、疲れた身体に染み渡る。
ビールが美味しい季節になった。

「いただきます」

秋山は両手を合わせてから箸を取る。
改めて、こうして食事を用意して待っていてもらえることの幸福を噛み締めた。


食後、皿洗いを申し出たのだがシャワーを浴びて来るよう促され、珍しく折れないナマエに秋山が甘える形となった。
バスルームに入り、熱い飛沫を頭から被る。
一人になって思い出すのは、今日の日中に起きた出来事だった。

事件がなく比較的平和な昼下がり、元小隊長四人で食堂に足を運んだ。
各々食指が動くメニューを注文し、同じテーブルを囲んで他愛のない話に興じながら箸を進めた。
その会話の中で秋山が弁財と冗談のような言い合いをしていると、道明寺が「お前はもう少し大人になれよな、秋山」と口を挟んできたのだ。
秋山は、六つ年下の同僚から投げ付けられた言葉に唖然とした。
もちろん、発言の直後に加茂から拳骨を喰らって涙目になっていた道明寺に、深い意図はなかったのだろう。
秋山を批難するつもりなどなく、単なる軽口だ。
それが分かっていたから、秋山は童顔に似合わない台詞を吐いた道明寺に苦笑してその場を流した。
だが、その指摘はボディーブローのようにじわじわと秋山の神経を刺激した。

俺は、大人気ないのだろうか。

秋山は、自分で認めるのもどうかとは思うが、それなりに大人のつもりだった。
二十五歳など世間一般においてはまだ若造かもしれないが、平均年齢が二十代前半というセプター4においては年長者の部類に入る。
第一小隊隊長を拝命し、次に特務隊の筆頭となり、立場としても組織の中では比較的上位にある。
その地位に見合う尽力を自負しているし、年下の同僚や部下たちを見守ってきたつもりだった。
しかし、それは自分の自惚れだったのだろうか。
道明寺は、良くも悪くも本音しか口にしない。
その彼に大人気ないと言わしめるほど、秋山は思慮分別に欠けているのだろうか。
ざる蕎麦を啜りながら、秋山は思案に暮れた。
終いには、大人の定義について熟考するところまで思考が深みに嵌った。
昼休憩から戻った情報室で、他愛ない軽口を過敏に捉え拘泥すること自体が大人気ないのだ、と自らに言い聞かせて秋山の憂悶は一先ず終了したはずだったが、仕事を離れると再び按じてしまう。

秋山は深く溜息を吐き出し、ノズルを捻ってシャワーを止めた。
ボディータオルを泡立て、ぼんやりと左肩から擦っていく。

ナマエさんは、大人、だよな。

脳裏に浮かんだ恋人の姿に、秋山は思わず項垂れた。
それを基準とするならば、確かに自分はまだまだ子どもだろう。
釣り合いがとれる男になりたいものだ、と秋山は嘆息した。

その時、コン、とバスルームのパネルドアを一度ノックされる。

「秋山ぁ。背中流してあげよっか?」
「ーー ひぇっ?!」

あまりの不意打ちととんでもない提案に、声が裏返った。
ドアを一枚隔てたラバトリーで、ナマエがくすくすと笑う声が聞こえる。
揶揄されたことを遅れて悟った秋山は、肩を震わせながら叫んだ。

「だっ、大丈夫です!遠慮しますっ!」
「そりゃ残念」

ちっとも残念ではなさそうな声で応えたナマエが、ラバトリーから出て行く気配。
秋山は、壁に背を預けてずるずるとその場にしゃがみ込んだ。
両手で顔を覆いかけて、泡だらけであることに気付く。
思惟の中身を一瞬で入れ替えられ、憂慮など意識の外に飛んでしまっていた。


タオルで大雑把に髪を掻き混ぜ、身体の水気を拭った。
下着を穿き、Tシャツとスウェットパンツを身に纏う。
タオルを頭の上に被せて部屋に戻ると、ナマエがベッドの縁に腰掛けていた。

「おいで、」

視線を秋山に向けたナマエが、ちょい、と手招きをする。
秋山は微かに首を傾げながらも、言われた通りに近付いた。
ナマエの目の前に立つと、手首を取って身体を反転させられる。

「はい、座る」

何が何だか分からないまま、秋山はナマエに背を向ける形で足の間のフローリングに座らされた。
背後から伸びてきたナマエの両手がタオル越しに秋山の頭に触れ、そのまま優しい手つきで濡れた髪を拭われる。

「……ナマエさん……?」

髪を乾かしてくれているのだ、と悟り、秋山は困惑した。
これまでに、そんなことをしてもらった覚えは一度もない。
秋山の戸惑いを察しているだろうに、ナマエは何も説明することなく秋山の髪を乾かしていく。
タオル一枚を挟んで感じる動きが心地良く、秋山は遠慮するタイミングを逸した。
折り曲げた膝を抱え、秋山はナマエの手の感触に身を委ねる。
ナマエは何を言うこともなく、ただ黙々と秋山の髪を掻き混ぜた。

なぜだろうか。
今夜のナマエは、ひどく甘い。
キスをしてくれて、食後の片付けもしてくれて、揶揄する口振りではあったが情欲を唆るようなことをしてくれて、最後には髪まで乾かしてくれる。
本人にとっては些細なことかもしれないが、秋山にとっては喫驚と幸福の連続だ。
何も言っていなのに、まるで秋山が落ち込んでいることを見抜いた上で甘やかしてくれているような、そんな気がしてしまう。
都合のいい解釈かもしれないが、勝手に思っているくらいは許されるだろう。

頑なに凝り固まっていた心がゆっくりと融解していく音を聞きながら、秋山はそっと目を閉じた。




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