空回りして愛廻る[1]
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秋山氷杜は焦っている。
いや、窮地に立たされていると言っても過言ではないだろう。
かつて伏見に三十分で仕上げろと書類の束を押し付けられた時よりも、宗像と手洗いで鉢合わせした時よりも追い詰められていた。
血の気が引き、頭が真っ白になるとはまさにこのことである。
それなりに優秀なはずの思考回路は悉く遮断され、残された僅かなルートをぐるぐるとハツカネズミのように回転するのみだった。

果たして何が秋山の平静を根刮ぎ奪っていったのか、事は十分程前に遡る。


秋山は今日、早番だった。
仕事がひと段落つき、昼食をとるため寮の食堂に向かっていると、階段を下りる途中で人にぶつかった。
相手の方が秋山より圧倒的に軽かったらしく、衝突した勢いで倒れそうになった身体を咄嗟に支えてみれば、どうやら庶務課に所属する女性のようだった。
書類を提出する際に、何度か見たことのある顔だ。
秋山は相手が体勢を立て直すまで腰を支え、きちんと両脚で立っていることを確認してから謝罪した。
幸い怪我はない様子で、しきりに大丈夫です、と言われた。
恥ずかしそうに階段を駆け上がっていく姿にほっと安堵し、秋山は止めていた足を前に下ろそうとしたところで硬直した。
階段の下から、誰かが上ってくる。
それは、出先から帰投したナマエだった。
思わず固まった秋山の前方から、ブーツの音が近付いてくる。
お疲れ、とすれ違いざまに一言。
それだけ言って、ナマエは何事もなかったかのように階段を上って行った。
秋山は、その後ろ姿を立ち竦んだまま見送った。


どのタイミングから、見られていたのだろうか。
そこが、秋山にとって最大の重要な点だった。
相手とぶつかったところから見られていたのならば、構わない。
接触はもちろん秋山の不注意でもあるが、しかし不可抗力だったと理解してもらえるだろう。
しかし、ナマエの目に入ったのがぶつかった後からだったとしたら。
秋山は階段で女性を抱き締めたことになる。
羞恥で顔を真っ赤にした女性を、だ。
これは、誤解を招くのではないだろうか。
少なくとも、逆の立場であれば秋山は間違いなく不安になる。
相手の男に嫉妬するし、不快にも感じる。
ナマエは何も言わなかったが、もしかすると誤解してしまったのではないだろうか。
という疑念が、秋山の脳裏を過ぎった。

そこからはもう、パニックである。

今更確認するまでもないが、秋山とナマエは同じではない。
つまり、ナマエが秋山と例の女性との関係を誤解したところで、不安だとか嫉妬だとか、そんなものを感じてくれるわけがない。
あの子が好きなんでしょ、ならもう別れよっか。
と、何の躊躇もなく言い放つナマエが容易に想像出来てしまい、秋山は絶望した。

否定しなくては。
誤解だと、あれは事故を防ぐためであって他意などなかったのだと、説明しなくては。

秋山は下りるつもりだった階段を反対に上りかけて、しかしすぐに足を止めた。

ナマエは基本的に、一度こうと決めてしまうと余程のことがない限りその意思を曲げたりはしないのだ。
秋山の言い分など、聞いてくれるかどうかも分からない。
別に弁解とかいらないよ、と丸ごと撥ね退けられそうだ。
どうすればいい。
どうすれば誤解を解くことが出来る。
しかし真っ白になった頭では良案など思い浮かぶはずもなく、秋山は無情にも過ぎていく時間の中でただ己の心臓が激しく暴れ回る音だけを聞いていた。


あれは違うんです。
どれがどう違うの。
抱き締めたんじゃなくて、階段から落ちそうになったのを支えただけで、疚しい気持ちなんて欠片もないんです。
別に弁解なんて必要ないよ。
だから、弁解ではなくて、俺は事実を、
秋山、不愉快。

………ああ、これは駄目だ。

ナマエさん、さっきのは誤解しないで下さい。
さっきの?
あれはただ、ぶつかってしまったので支えただけで、他意なんてなかったんです。
へえ、随分いい雰囲気だったけど?
そんなことありませんっ!そんな、
秋山、もういいから。

………ああ、これも駄目だ。

ナマエさん、聞いて下さいっ。
却下。

………ああ、話にならない。

ナマエさん、俺が好きなのは貴女だけです。
………で?
だから、その……っ、
私は別に君のことなんて好きじゃないけど?

………ああ、終わる。人生が終わる。

どうすればいい、何と言えばいい。
どの選択肢を選んでもバットエンドになるなんて、日高の言葉を借りればただの無理ゲーだ。
いっそ何も言わずに無理矢理キスをすれば……いや、それはただの強姦だ。
そんなことを出来るはずが、

「秋山?」

ハツカネズミとなった思考に、突如別の信号が加わった。
顔を上げれば、階段の上から加茂が下りてくる。
恐らくは秋山と同様に昼食休憩だろう。

「どうした?そんな所で立ち止まって」

なるほど、階段の途中である。
確かに考え事をするには不向きな場所だった。

「……いや、何でもないんだ」
「何でもない、という顔ではないぞ」

同じ段に並んだ加茂に見下ろされ、羨ましい身長だ、なんて場違いなことに思惟を逃避させる。

「……ミョウジさんに会ったか?」
「ん?ああ、さっき情報室に戻って来たが」
「……どんな様子だった?」
「様子?別にいつもと変わらなかったぞ」

一瞬安堵しかけ、しかし秋山はすぐにそれを否定した。
秋山の顔も見たくないほど怒っていても、職場では絶対にそんな気配を滲ませない人である。
まさか、秋山が誰か他の女性を抱き締めたくらいで雰囲気を変えることはない。
そう、秋山にとっては一大事でも、ナマエにとってはそのくらいのこと、なのだ。
瞋恚、動揺、ましてや不安なんて感じてくれるはずもない。

「なんだ?喧嘩でもしたのか?」

加茂の問いに、秋山は力なく首を横に振ってから項垂れた。
きっとナマエは、喧嘩すらさせてくれないだろう。

「とりあえず昼にしよう。食べないともたないぞ」
「……ああ、そうだな」

たとえ今ナマエのいる情報室に行けたとて、まさか職場で事情を説明したり弁解したりするわけにはいかない。
秋山は小さく頷き、ようやく本棟の階段を下りきった。


昼食を何とか胃に収めて情報室に戻ると、室内にはナマエがいた。
加茂の言う通り、常変わらぬ雰囲気で書類を捌いている。
秋山が部屋に入っても顔を上げることはなく、その視線は手元に注がれたまま動かなかった。
ナマエも秋山と同様に早番のため、仕事の後に話す時間が取れるだろう。
果たして何をどう話せばいいのかプランは全く纏まっていないが、とにかくこのままにしておけないことだけは確かである。
秋山は鈍くなった思考を何とか回転させ、残業になることだけは避けようとデスクに向かった。

しかし結論から言うと、気も漫ろな秋山は終業間際に盛大なミスを犯した。
伏見の指示で作成していたデータを、完成間際で誤って削除してしまったのだ。
普段の秋山ならば途中でこまめに保存するため然程困ったことにはならなかったはずだが、集中力を欠いていたせいで今回は殆ど保存しておらず、データの大半が一瞬で消え去った。
本日二度目の、茫然自失である。

「秋山ァ、終わったか?」

タイミングを見計らったかのような伏見の確認に、秋山は慌てて立ち上がると、伏見の側まで歩み寄って思い切り頭を下げた。

「申し訳ありません伏見さん!あと三時間……いえ、二時間お待ち頂けますか?」
「はぁ?二時間?なんでそんなかかんの」
「………その、」

恐る恐る顔を上げる。
案の定、伏見は疑問と瞋恚を混ぜ合わせたかのような視線で秋山を見据えていた。

「データを……、誤って、消してしまいまして、」
「は?バックアップは?」
「四分の一程度しか……」

チッ、と放たれた舌打ちに、秋山は首を竦める。
しかし決して理不尽な怒りではないので、真正面から受け止める以外に術はなかった。

「……あんた、今日どうしたわけ?」
「どう、と言いますと……?」
「今日ってか、昼からか。なんか上の空だな」

難なく図星を指され、秋山は言葉に詰まる。
まさか見抜かれているとは思ってもみなかった。

「申し訳ありません……」
「謝れって言ってんじゃなくて、理由を聞いてんだけど」
「……その、私事ですので弁解の余地はありません」

秋山がもう一度頭を下げると、再び伏見の舌が鳴る。

「ミョウジ」

しばらくの沈黙を破り、伏見は唐突にナマエを呼んだ。
秋山の背に、嫌な汗が浮く。
腰を折ったままの秋山の側に、ナマエが近付いてくる気配を感じた。

「こいつから仕事引き継いで一時間で俺に提出しろ」

伏見からナマエに出された指示に、秋山は思わず顔を上げる。
伏見はすでに秋山から視線を外し、座ったままナマエを見上げていた。

「分かりました」
「……え、あの、伏見さんっ」
「あんたはもういい、帰れ。そんなんじゃ使いもんになんねーよ」

最後までやらせてほしい、と申し出ることすら叶わず、犬を追い払うような仕草で手を振られる。
そのまま作業に戻った伏見は、もう秋山のことなど見向きもしなかった。

「秋山、途中まで出来てるデータ送って」

立ち尽くしていた秋山に、デスクに戻ったナマエから声が掛けられる。
一言で言えば、今からナマエがすることは秋山の尻拭いだ。
しかしそこに責めるような響きはなく、もちろん慰めるような気配があるはずもなく、ただ事務的な口調で促される。
秋山に出来るのは、謝罪と共にデータをナマエのパソコンに送ることだけだった。



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