Love you Darling [2]
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大根と油揚げ、えのきの入った出し汁に味噌を溶かし終え、秋山は調理台の隅に置いたタンマツで時間を確認した。
もうすぐ、きっともうすぐナマエが帰って来る。
そう思うだけで、心の奥底が泡立つような、奇妙な高揚感に支配された。

ついに迎えた、ナマエの帰国日。
本当は車を出したかったのだが、事前に告げられた飛行機の到着時刻が秋山の退勤予定時刻より少し早かったため、秋山は空港までの出迎えを諦めた。
一刻も早く会いたかったが、空港でナマエを待たせてしまうことは本意ではない。
その代わり、秋山はナマエの部屋で夕食を作りながら帰りを待つことにした。
空港から椿門まで、電車で四十分。
そこから屯所まで戻り、帰投の挨拶と報告をすると、さらに追加で三十分程度。
秋山の読みが正しければ、ナマエはそろそろ部屋に戻って来るはずだった。
白米はすでに炊けているし、お浸しと味噌汁も出来た。
親子丼の下拵えも済んでいる。
準備は完璧だ。
手持ち無沙汰になった秋山はそわそわと落ち着かない心のままに、意味もなく部屋を彷徨いた。
鏡の前に立って身嗜みを整えてみたりする。
目を合わせた己は、どこか緊張した面持ちだった。

ナマエに会うのは二週間ぶりだが、それとこの部屋を訪れなかった期間はイコールにならない。
部屋の換気という勝手な名分を理由に、主が不在の部屋で何度か夜を過ごした。
その数、二週間で五回。
最早、換気などという言い訳が通用するはずもない回数である。
そのことは、一回目に空気の入れ換えを終えても部屋を出て行かなかった時点で秋山とて承知していた。
この部屋に、秋山は囚われてしまうのだ。
ナマエと過ごした時間がすぐさま彷彿と蘇る空間、残されたナマエの匂いや形跡。
あまりにも優しくて、そしてあまりにも寂しい場所だった。
いるはずの人がいない。
今にもナマエが「ただいまぁ」と帰って来そうなのに、ドアは開かない。
静まり返った部屋で、秋山は一人ベッドに潜り込んだ。
その際、ラバトリーに残されていた洗濯物の中からナマエのワイシャツを引っ張り出したことは、秋山だけの秘密だ。
ナマエには決して明かせない。
シーツに身を投げてナマエのワイシャツに顔を埋めれば、まるでナマエを抱き締めているような錯覚に溺れることが出来た。
ナマエの匂いに包まれて安堵し、そしてナマエの不在をまざまざと痛感する。
絶対にメールの着信を聞き逃さないようタンマツを握り締め、ワイシャツを胸に抱いて過ごす夜はあまりにも長かった。


ベッドを眺めて回想に耽った秋山は、不埒なことまで思い出しかけ慌てて首を振る。
勝手に入った部屋で承諾も得ずワイシャツとベッドを借りた上にナマエの匂いに唆られて欲情した話なんて、ナマエには絶対白状出来ない。

でも、ちゃんと思い留まったし。

胸の内で救いようのない弁解を零しながら、秋山は手慰みにシーツを整えた。
二週間溜め込んだ欲望が、腹の底で蠢く。
今夜は駄目だ、と秋山は自身に言い聞かせた。
ただでさえ異国の地での生活と仕事に疲労を感じているだろうに、さらに九千キロメートル近い距離を、十七時間の時差を越えて帰って来るのだ。
二週間ぶりの日本で、安心出来る部屋で、今夜は何も気にせずゆっくりしてほしい。
そのために、何よりも重要なのは秋山の自制心だった。

いいか、秋山氷杜。
今夜は万難を排しても踏み留まれよ。

自らに念を押して決意を新たにしたところで、不意にドアの向こうから音が聞こえた。
それが鍵を鍵穴に差し込む音だと分かるや否や、秋山は玄関にすっ飛ぶ。
キッチンの脇を通り過ぎたところで、目の前のドアが外から開かれた。
ドアノブを引いたナマエが、恐らく音で気付いていたのだろう、秋山を見ても驚いた様子を見せずに苦笑する。

「おかえりなさい……っ!」

最初に告げる言葉は決まっていた。
ようやく目にすることの出来た姿に感極まりながらも、秋山は迎えの言葉を差し出す。

「ん、ただいま」

二週間ぶりの声。
メールは送っていたが、時差を考慮して電話を掛けたことは一度もなかった。
久しぶりに鼓膜を揺らした、ナマエの声。
その背後でドアが閉まると共に、秋山はナマエを引き寄せて思い切り抱き締めた。
ナマエの手から落ちたバッグが、どさりと不満げな音を立てる。
だが、そこにまで気を配る余裕はなかった。
髪や洋服から、いつもとは異なる匂いが漂う。
でも、首筋に顔を埋めれば、秋山のよく知るナマエの匂いが鼻腔を擽った。

「ナマエさん……っ、ナマエさん、……ナマエさん」

背中と腰に腕を回して掻き抱き、確かめるように何度も名前を呼ぶ。
帰って来てくれた。
ここに、この場所に、この腕の中に。
ようやく、帰って来てくれたのだ。

「ただいま、秋山」

耳元で繰り返された言葉に、二週間ぶりに呼ばれた名前に、秋山の髄が震えた。

「……おかえりなさい、ナマエさん」

正直に言うと、全然足りない。
だがいつまでも玄関に立たせておくわけにはいくまいと、秋山は腕の力を緩めた。
離れ際、ナマエの唇に触れるだけのキスを落とす。
おかえりなさい、のキス。
出国前、車を降りる際にナマエがくれたキスを返そうと、数日前から決めていた。

「今夜は親子丼にしたんです」
「いいねえ、流石秋山。ほんっと、白米が恋しくてさ」

秋山が夕食の献立を伝えれば、ナマエが嬉しそうに笑う。
どうやら秋山の読みは当たっていたらしい。
正解を出せたことに安堵しながら、秋山は屈んでナマエのバッグを持ち上げた。
行きと殆ど変わらぬ重さのそれを部屋まで運び、後ろを振り返る。
ジャケットを脱いだナマエが、それをハンガーに掛けることもせず放り出して床に座り込んだ。

「お疲れ様でした」

床に投げ出されたジャケットを拾い上げながら声を掛ければ、ナマエが秋山を見上げて苦笑する。
ナマエは平均と比較すれば体力のある方だが、海外出張と長時間のフライトは普段とはまた異なる疲労感を生んだのだろう。
秋山はジャケットをハンガーに掛けてクローゼットに仕舞い、キッチンに向かった。
用意していたフライパンを一旦除け、薬缶に湯を溜める。
夕食の前に、先に茶の準備をすることにした。
いつものコーヒーではなく、正真正銘の日本茶である。
といっても、この部屋に急須はないのでパックの緑茶なのだが、昨日スーパーで鶏肉や卵と一緒に買っておいた。
マグカップに小さなパックを入れ、沸かした湯を注ぐ。
程良く色がついたところでパックを抜き取り、部屋に戻ってマグカップを差し出せば、中身と秋山とを交互に見たナマエが目を細めた。

「あーー……、ほんと、ありがと」

陶器の縁に唇をつけて緑茶を啜ったナマエが、ほっと息を吐き出す。

「日本はいい国だ……」

しみじみと呟かれた一言に、秋山は笑った。

「すぐに夕食の支度をしますから、ゆっくりしていて下さいね」

ん、と頷いたナマエを残し、再びキッチンに立つ。
予め用意しておいた材料を確かめながら、秋山は壁一枚の向こうにある気配に頬を緩めた。

やっと、帰って来てくれたのだ。

どこかに行ってしまった最後のピースをようやく探し出して、ぴたりと嵌め込んだような充足感。
微かに聞こえてくる物音に、胸の奥が柔らかな幸福で満たされる。
フライパンでくつくつと音を立てる親子丼の具が、今回はきっと美味しく出来ている気がした。




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