悪戯な誘惑[3]
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秋山は、書き損じた書類をぐしゃりと丸めてデスクの上に投げた。
苛立っているのが自分でも分かる。
朝から何もかもが上手くいかなかった。

ナマエがバレンタインデーを理由にして同僚に義理チョコをあげることも、またその方法も、ナマエの自由だ。
秋山がとやかく言うことではない。
それは理解している。
だが、目の前であんなものを見せ付けられれば当然腹は立つし、何よりも悲しかった。
至近距離で男を見上げ、剰えその口に何かを食べさせるなど。
到底気分の良い光景ではない。
ナマエにはそれが分からないのだろうか。
口振りから察するに、ナマエにとってあれは大したものを用意出来なかったことに対する詫びのようだった。
しかしそれは直前に依頼した日高らの責であり、ナマエに非はない。
そもそも食べさせることが詫びになると考えている時点で、ナマエはそうすることにより相手が喜ぶことを理解していたのだ。
秋山の目の前で、他の男を喜ばせた。
それは紛れもない事実だった。

ああ、上手くいかない。

再び書き損じた書類の上に、秋山はペンを投げ出した。

こんなことで苛立つ己が狭量なのだろうか。
秋山は溜息を吐きながら項垂れる。
ナマエにとっては何てことのない、些細なサプライズのつもりだったのかもしれない。
しかし嬉しそうに笑ったり照れ臭そうに視線を逸らしたりした同僚たちを思い出すと、秋山の胸懐に瞋恚が煮え滾った。

ああでも、室長にあれをしなかったことは、唯一の救いだったのかもしれない。

これでナマエが宗像にまで食べさせていたら、秋山は間違いなく立ち直れなかっただろう。
そこはナマエも気を遣ってくれたのか、それとも単純に宗像にチョコレートを渡すつもりがなかったのか。
どちらにせよ、それだけは感謝していた。


秋山は顔を上げ、報告書は後回しにして先に別件の資料を確認しようと立ち上がる。
人気のない資料室に行けば、少しは気も落ち着くかと思った。
タンマツを懐に仕舞って情報室を後にし、大理石の廊下に靴音を響かせる。
角をいくつか曲がり、第三資料室の扉を開けた。
紙媒体の資料が詰め込まれたこの部屋は少し埃っぽく、薄暗い。
秋山は他に人がいないことを確認し、ほっと息を吐き出した。
目当ての資料を探すべく棚に視線を走らせながらも、思考は同じところばかりを駆け巡る。

きっと、悪気はなかったのだ。
敢えて秋山の嫌がることをしようとしたわけではない。
ただ、ナマエは本人の自覚もないままに男を惹き付ける独特の雰囲気がある。
それだけのことだ。

秋山は本日何度目かの溜息を吐き出し、資料棚に凭れ掛かった。
理解していても、感情は追い付かない。
それはいつものことだった。
良くも悪くも奔放なナマエに、振り回されてばかりいる。
もっと泰然と構えているべきなのだろうが、生憎秋山にその度量はなかった。

無意識のうちに職務を放棄していた秋山は、それに気付いてゆっくりと背を浮かせる。
再び資料ファイルの棚に向き合ったところで、不意に部屋の扉が開く音が聞こえた。
あまり人が訪れる場所ではないのに、誰かと鉢合わせをするとは珍しいこともあるものだ。
秋山は棚と棚の間に出来た通路から顔を覗かせ、入口の方を窺った。

「見つけた」
「……ミョウジ、さん……?」

思いがけないことに、そこにいたのはナマエだった。
驚いて固まった秋山を余所に、ナマエが近付いてくる。

「情報室にいなかったから探した」
「え、何かありましたか?」

タンマツは鳴っていないが、何か急用だろうか。
首を傾げた秋山の側まで来たナマエが、先程まで秋山がそうしていたように棚を背凭れにして姿勢を崩した。

「朝のこと、怒ってる?」

その口から飛び出した問いに、秋山は目を見張る。
特務隊の面々に交際を知らせてからは人目のない時のみ多少緩和されたが、それでもナマエは基本的に公私をしっかり区別していた。
こんな風にプライベートな話題を持ち掛けてくることは、かなり珍しい。

「……そういうわけでは、ないんですが、」

素直に答えて良いものか分からず、秋山は曖昧に否定した。
しかし、そんな秋山の心情などお見通しだったのだろう。

「ごめん、怒ったよね」

先程の質問は一体何だったのか、ナマエが自己完結させた上に謝罪を零した。

「途中で気付いた。あ、これ駄目だったんだ、って」
「……そう、ですか」

あっさりと謝られてしまっては返す言葉もなく、秋山は意味のない相槌を打つ。
ナマエが微かに柳眉を下げた。

「本当はね、別に詫びでも何でもなかったんだ」
「では、どうして?」

なぜ、あんなことを。
無意識のうちに、秋山の語気に批難の色が混じる。
しかし、返って来た答えは秋山の意表を突くものだった。

「ほんの悪戯心っていうか。秋山の照れた顔、見たくなって」
「………はい?」

ぽかん、と口を開けた秋山の視線の先。

「でも、秋山にだけ食べさせたら流石にあれでしょ?だからカモフラージュで全員やった」

ナマエがあっけらかんと、ことの真相を語った。

「……な、んですか、それ……。俺は、俺が一体どんな思いでそれを見ていたと……!」

喜べばいいのか怒ればいいのか分からず、秋山は声を震わせる。

「うん、だから、今度こそお詫びに」

そう言ったナマエが、片手に持っていた書類用の黒いプラスチックケースの中から取り出したのは、今朝も目にしたポッキーの袋だった。
開封済みであることから、秋山は今朝の残りだろうと察する。

「ん、」

チョコレートでコーティングされた先端を自ら口に咥えたナマエが、位置を調整して反対側を秋山の口元に寄せた。

「え、あの、ミョウジさん?」

戸惑う秋山の目前で、ポッキーが揺れる。
これは、咥えろという意味だろうか。
俗にいうポッキーゲームのことだと理解し、秋山は瞬間的に脳を沸騰させた。
顔に熱が集まる。
多分いま、馬鹿みたいに真っ赤な顔をしているのだろう。
秋山は無駄に手と視線を彷徨わせた。

「……秋山ぁ、溶ける」

一向にナマエの指示に従えない秋山に痺れを切らしたのか、一度唇からポッキーを離したナマエが苦笑する。
唇に付着したチョコレートを舌で舐め取る姿に、秋山は喉を上下させた。
吐き出す息までもが熱くなる。

「やり直し。本当はちゃんと用意したかったけど、バレンタインとか昨日まで忘れてて。だから今年はこれで許して」

そう付け足して、ナマエは再びポッキーを咥えた。
秋山は、ナマエの言葉を脳内で反芻し泣きそうになった。
もしも覚えていたならば、ナマエは秋山に恋人として何かを贈ろうと考えてくれたということだ。
今年は、という言葉を用いるということは、来年の今頃も傍にいてくれるということだ。
秋山は情けなく表情を崩して笑い、そっと差し出されたポッキーに唇を寄せた。

僅か十五センチ弱の距離で、一本のポッキーを間に挟む。
ナマエは、秋山が反対側を咥えても微動だにしなかった。
これは、秋山に食べ進めろと言っているのだろう。
さくり、さくりと秋山は徐々にポッキーを噛み砕いた。
ほんの少しずつ縮まっていく距離。
指三本分の長さを残し、秋山はそれ以上進むことを躊躇った。
ナマエの瞳が真っ直ぐに秋山を見ている。
双眸を囲む睫毛まで鮮明に見て取れ、秋山は羞恥に視線を逸らした。
キスは何度もしているのに、ポッキーを挟むだけで異様に照れ臭くなるのはどうしてなのだろうか。
もう無理です、と心の中で悲鳴を上げたところで、ナマエが唇の端を持ち上げた。

さくり、と今度はナマエがポッキーを砕く。
ゆっくりと、しかし躊躇なく食べ進められ、秋山が残した距離があっという間に詰まった。
そしてそのまま、ゼロになる。
一度口の中身を嚥下したナマエが、残ったポッキーを秋山の唇から奪ってそのまま口付けた。

「……は、……ぁ……」

触れるだけのキスを解き、そのまま至近距離で視線を合わせる。
ナマエが楽しげに笑った。

「さっきちょっと食べたけど、まだあと五本残ってるよ」

かさかさ、と下から音が聞こえる。
ナマエがポッキーの袋を揺らしたのだと分かった。

「どうする?……氷杜」
「ーーっ、ナマエさん……!なんでこんなところで呼ぶんですか……っ」

滅多に人が訪れることのない資料室とはいえ、誰でも簡単に入ることが出来る。
剰え、今は歴とした就業時間内だ。
こんな時にこんな所で煽られても、秋山には拷問にしかならない。
ふふ、とナマエが笑声を零した。

「じゃあ、また今夜」

そう言ったナマエが秋山からさっと身体を離し、持っていたポッキーの袋を秋山に押し付けて背を向ける。
ひらりとプラスチックケースを振って資料室を出て行く後ろ姿が扉の向こうに消えた途端、秋山は棚を背にしてずるずると床に座り込んだ。
空いている右手で顔を覆う。
左手の中で、ポッキーの折れる音が聞こえた気がした。





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