願いが一つ叶うならば[1]
bookmark


その日早番の秋山が、情報処理室を後にしたのは午後五時過ぎだった。
事件のない比較的平和な一日だったため、さしたる疲労感もない。
それなのに、青雲寮に向かう足取りはどこか緩慢な重さを孕んでいた。
原因など、自問するまでもない。
今日はナマエが非番だった、ただそれだけのことだ。

以前ならまだしも、ここ数ヶ月は秋山にとってナマエの非番は楽しみの一つだった。
もちろん顔を合わせる時間が短くなってしまうのは寂しいが、非番の日はナマエが部屋で料理をしながら秋山を待っていてくれる。
ナマエの待つ部屋に帰り手料理を振る舞ってもらうことは秋山にとって、もちろん到底声に出して言えることではないが、まるで新婚のような感覚を味わえる貴重なイベントだった。
しかし生憎、今日はそれがない。
ナマエは今日、何か予定があるらしく屯所を空けているのだ。
残念ながら、秋山を待っているのはナマエの笑顔と美味しい夕食ではなく、誰もいない見慣れた自室だった。

実は秋山は、ナマエが今日どこに出掛けているのかを知らない。
朝、今日は用事があるから出掛ける、とナマエに告げられた際、秋山はその内容を問うことが出来なかった。
その場で秋山が訊ねていれば、もしかしたらナマエは答えてくれたのかもしれない。
しかし、プライベートにどこまで踏み込んでいいのか図りかねた秋山は、その質問を躊躇った。
結果、ナマエもそれ以上は何も言わず、秋山は時間に追い立てられてナマエの部屋を後にした。

職業こそセプター4の隊員という少し特殊な肩書きだが、ナマエは歴とした二十代の女性だ。
屯所内に限らず、様々な交友関係があるだろう。
出身は横浜だと言っていたので、学生時代の友人の多くは比較的近い場所に住んでいるのかもしれない。
国防軍の本部は都内にあるため、元同僚にも会おうと思えばすぐに会えるだろう。
その他、ナマエには秋山の一切関知していない人付き合いがいくらでもあるはずなのだ。
数少ない非番で会いたい相手は多いのかもしれない。

気にならないとは、口が裂けても言えなかった。
何も、交友関係にある人物を全てリストアップして教えてほしいと言っているのではない。
しかし、もし万が一それが許されるならばそうしてほしいと思ってしまうくらいに、秋山は己がナマエに関する全てにおいて器が小さいことを自覚している。
せめて、誰とどこで何をして、その相手はどんな関係の人なのか、という辺りまでは把握したいと思ってしまうのだ。
女々しいことこの上ない、と秋山は自室で制服の上着を脱ぎながら自嘲した。
お互いにいい年の大人なのだ。
干渉しすぎるべきではないのだろう。
少なくともナマエは絶対にそれを望まないと理解しているからこそ、秋山は今朝何も聞かなかった。
誰と、どこに行って、何をするのか、一つも確認しなかった。
ナマエが秋山に今日は用事があると伝えてくれただけでも、それは十分な僥倖だったのだ。
ナマエには、用事の有無をわざわざ秋山に知らせる義務などない。
それでも言葉にしてくれたのはきっと、秋山がナマエの不在に不安を募らせないように、という配慮だったのだろう。
大切にされている、気に掛けてもらっている。
これで満足するべきなのは、秋山も重々承知していた。

部屋着にしているニットのセーターとロングパンツに着替え、脱いだスラックスをハンガーに掛ける。
夕飯は食堂で済ませてしまおうと考えていた。
時間はまだ早いが、わざわざ一人で出掛ける気分にはなれない。
ナマエがいないと夜が長い、と溜息を吐き出したその時、テーブルに置いたタンマツが着信音を鳴らした。
まさか何かミスでもあったか、と音の発信源を振り返った秋山は、画面に表示された名前を見て硬直する。
そこにはナマエのフルネームと、電話の着信を告げる文字が並んでいた。

「ーーはい、秋山です」

ナマエから電話が掛かってくるという珍しい状況に焦り、一度取り落としたタンマツを何とか持ち直して、秋山は上擦りそうになる声を抑え込み通話のアイコンをタップした。
ナマエは屋外にいるらしく、回線の向こうから僅かな雑音が聞こえてくる。

『お疲れ、秋山。もう上がった?』

その雑踏を背後に、ナマエの落ち着いた声が鼓膜を揺らした。

「お疲れ様です。さっき部屋に戻ったところですが、」
『そ。夕食は?』
「まだ、です。今から食べようかと思っていて、」

ナマエの口振りから、この電話の目的が仕事に関することではないと察する。
出先で事件に巻き込まれただとか、そういう緊急性のあるものではなさそうだった。

『今から出て来れる?』
「え……?」
『夕食、まだなんでしょ?どっかで一緒に食べよ』

気軽な口調で投げられた提案に、秋山はナマエに誘われているのだとようやく気付く。
その途端、鼓動が跳ね上がった。

「は、い……っ、もちろん、喜んで」

だって、これは。
これはきっと、所謂デートのお誘い、じゃないか。

『椿門の駅前に、コーヒーショップあるの分かる?』
「はい、チェーンの、」
『そ。そこで待ってるから』

待ち合わせ。
ますますデートの様相を呈する展開に、秋山は気分を高揚させた。

「分かりました、すぐに行きます」
『ん、じゃあまた後で』

約束を取り付けたナマエが、あっさりと通話を切る。
静かになったタンマツを呆然と見つめ、秋山は歓喜に膝から崩れ落ちそうになった。

初めて、だ。
こんな風にナマエが、秋山を誘ってくれるのは。

デートと呼ばれるものを、ナマエとしたことがないわけではない。
互いの非番が重なった時、たまには出掛けようか、という自然な流れで共に外出したことはあった。
しかしそれも片手で数えられるほどで、そのどれもが秋山の提案だった。
ナマエが自ら秋山に声を掛けてくれたのは、これが初めてだ。

秋山は大慌てで着たばかりの部屋着を脱ぎ捨て、クローゼットの中を漁った。
ナマエを待たせている以上時間は掛けられないが、だからといって適当な格好で会うわけにもいかない。
比較的新しいネイビーブルーのスリムパンツに、衿付の長袖コーデュロイシャツとケーブルニットのセーター。
その上にダッフルジャケットを羽織り、秋山は自分の格好を見下ろした。

おかしくない……よな……?

今になって、もう少しファッションに精通しておくべきだったと後悔する。
今日のナマエがどんな服装か分からないため、フォーマルとカジュアルのどちらに寄せればいいのか分からず、結局その中間を取った。
これが正しい選択なのかどうか自信はないが、もう時間がない。
秋山はタンマツと財布をジャケットのポケットに捩じ込み、ウイングチップシューズを履くと急いで部屋を飛び出した。



prev|next

[Back]
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -