ただ一人貴女だけを[3]
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好きだ、という言葉。
全て見せて欲しい、という言葉。
それは確かに、今のナマエの本心だろう。
だがそこに、"この先もずっと"という修飾語はつかないのだ。
当たり前だ。
ナマエは、確証のない未来の話を易々と口にするような人ではなかった。

今は秋山のことを想ってくれていても、この先は分からない。
たとえば秋山が何かナマエの気に障ることをした瞬間に、ナマエにとっての秋山が何の価値もない存在に成り下がる可能性はいくらでもある。
それを知っているから、秋山は怖いのだ。
一度許されても、二度目以降を許されているとは限らない。
求める気持ちと、拒絶を恐れる気持ちが半分ずつ胸の内に居座っている。
動くに動けないと、秋山は己の意気地なさに泣きたくなった。

だが、弁財の言う通りだよな。

秋山は、昨夜相談に乗ってくれた相棒の言葉を思い出す。
真正面から向き合うしかない。
まさにその通りだった。
ナマエ相手に、いくら秋山が頭を捻ったところで良策など浮かぶわけがないのだ。
当たって砕けーーーたら絶望しかないが、でもその心意気でぶつかっていくしかない。

「……ナマエさん、」

秋山はマグカップをテーブルに置き、身体ごとナマエに向き合った。

「ん?」

顔を上げたナマエが、手元のタンマツをスリープモードにする。
それは、話を聞いてくれる合図だった。
向けられる、秋山の抱く下劣な渇求など露ほども察していないであろうナマエの視線を受け、怯みかけた意思を奮い立たせる。

「今から俺がお伝えするのは、俺の身勝手な願いです。だから、ナマエさんの許容範囲の内側にある部分だけ、聞いて下さい」
「……ん、よく分かんないけど、とりあえず何?」

訝しげに傾げられた首。
握り締めた手の内側に汗が滲んだ。

「……俺は、叶うことなら毎日、貴女を抱きたいです」
「………は?」

珍しく、ナマエが瞠目した。
当然といえば当然だが、よほど驚いたのだろう。

「でも貴女が決してそれを求めはしないことは、分かっています。だから、どのくらいなら許されるのか、それを教えて下さい」

ナマエの無防備に開いた口が僅かに蠢き、しかし何も音を発しないまま閉じられる。
何かを思案するように、ナマエは目を細めた。

「……うん、まあ確かに、全部は聞いてあげれないね」

やがて、ナマエが困ったように苦笑する。
無理と承知していたことでも、面と向かって言われると気持ちが数段落ち込んだ。

「私の体力的に無理がある。デスクワークならまだしも、現場で足腰立ちませんじゃ笑い話にもならない。必ず一回で済ませてくれるなら話は別だけど、それは保証してくれないでしょ?」

四回も立て続けに及んだ前例がある以上、秋山に否と答える権利はないだろう。
そもそも、説得力が皆無だ。
項垂れるように首肯すれば、ナマエがくすりと笑った。

「素直でよろしい。……仕事のクオリティ維持にある程度の睡眠は不可欠。だから、とりあえずシフトの状況は考慮すること。あとは、」

そこまで、まさに社会人として理想的な正論を説いていたナマエが、不意に言葉を切って秋山を見つめた。

「……ああ。何が言いたいのかやっと分かった」
「え……?」

何一つ口を挟まず聞いていた自分の"言いたいこと"が分からず、秋山は目を瞬かせる。

「断られるのが怖い?」

ナマエの台詞に、それが最初に口にした要望の部分に充たるのだと気付いた。
やはり見破られた。
秋山は、案の定な展開に眉を下げる。

「ん、なるほどね」

秋山の無言を正しく解釈したナマエが、納得したように呟いてカフェオレを口に含んだ。
微かに喉が上下する。

「こればっかりは、その時の気分とか体調とか、なかなか不規則だからねえ。ルールを決めるのは難しいな」

クリーム色の液面を眺めながら、ナマエが考え込むように眉根を寄せた。
秋山は、何も言えずにその姿を見つめることしか出来ない。

「……前提として、私は基本的に君のお願いを聞いてあげたい」
「……え……?」

顔を上げたナマエが明確に打ち出した内容に、秋山は呆然と固まった。
何か、とんでもないことを言われた気がする。

「ただ生憎、さっきも言った通りシフトは考慮しなきゃなんないし、私は女だから生理もあるし、疲労困憊で今すぐ寝たいって日もあるし、どうしてもそういう気分になれない日もないとは言えないと思う」

はい、と秋山は頷く。
ナマエの言うことは尤もだった。

「だから、合図を決めようか」
「合図、ですか?」
「そ。断られるのが嫌なら、私から誘ってあげる」
「ーーっ、」

ふ、と笑ったナマエの表情と言葉に、心臓が高鳴る。

「何がいいかな。出来るだけ簡単で分かりやすくて、且つ他とは区別出来るもの。ついでに、間違っても秋山が泣かないやつ」

最後に付け足された一文に、秋山は情けないやら恥ずかしいやらで俯いた。
ナマエの中では、何かある度に秋山が泣くという図式がすっかり定着してしまっているらしい。
否定出来ないところが辛かった。

「……ああ、氷杜」
「は、い……?」

不意に呼ばれた名前に秋山が答えると、ナマエが笑った。

「合図、これにしよう。氷杜」
「……名前、ですか?」
「そ。私が君を名前で呼んだら、それはオーケーの合図」
「……なるほど、」

確かにそれは分かりやすい合図だ。
そう呼ばれたら、抱いてもいい、ということ。

「その先は秋山が決めればいいよ。したいならすればいいし、したくないならしなくていい」
「……貴女に誘われて、しないなんて選択肢があると思っているんですか?」

そうでなくても、いつだって抱いていたいのに。

「はは、そこは好きにしていいよ。……うん、じゃあこれでいこっか」

楽しげに笑ったナマエが、でもね、と付け足す。

「私もね、君に誘われてみたいなとは思うんだ。だから、いいと思った時でも毎回は誘ってあげない。いつか、君からも誘ってね」

そう言ったナマエの笑みがあまりに艶やかで、秋山は顔に熱が集まるのを自覚した。

「……努力、します」

他に言葉が思い浮かばず真面目に返せば、ナマエが笑みを深める。
綺麗な弧を描いた唇に、キスをしたいと思った。

「……ナマエさん、」
「ん?」
「キスまでは、いつでもいいんですよね?」

秋山の馬鹿正直な問いに、ナマエがふっと息を漏らす。
ナマエが、手に持っていたマグカップをテーブルに乗せた。

「今日はその先もいいよ。……氷杜」

それは、二度目の誘い。
秋山は、人生で初めて己の名前に欲情した。




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