ただ一人貴女だけを[2]
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黒いマグカップの縁に触れた唇が、秋山の視線を惹きつけた。
淡い桃色の、どちらかといえば少し薄めな唇。
ふう、と僅かに突き出して息を吹きかけてから、陶器の縁を挟んだ。
上唇が微かに動き、カフェオレを啜る。
やがてマグカップから離れていくまでの一連の流れを、秋山はじっと見つめた。
満足そうに緩む唇に、視線が釘付けとなる。
その唇の感触を思い出し、腹の底で小さな炎が灯った。

恒例となった、食後のコーヒータイム。
いつものように秋山はブラックで、ナマエはカフェオレを飲んでいた。
時刻はもうすでに日付が変わる直前だが、明日は互いに遅番のため、さほど急かされる感覚はない。
ちらりと時計を確認した秋山は、じりじりと大きさを増す炎を自覚してどうしたものかと頭を抱えた。

先週、初めてナマエと身体を重ねて以降、これが三度目の共に過ごす夜だった。
欲求のままに行動するならば、秋山は今すぐにでもナマエの唇を奪ってベッドに押し倒してしまいたい。
初めて身体を重ねた夜のことを、秋山は今でも鮮明に覚えていた。
ナマエに許されて、半ば夢見心地のままに触れた肌。
秋山の手によって乱れてくれた肢体は、この世のものとは思えないほど美しく見えた。
応えてくれることが信じられないほどに幸せで、秋山は我を忘れてナマエを愛した。
その結果が、まさかの最多記録に繋がったわけである。
それどころか、秋山は一晩に二回以上行為に及ぶことさえ初めてだった。
あの時はただひたすらに、止まれなかったのだ。
貪欲な獣に成り下がり、終いにはナマエが気を失うまで求めてしまった。
翌朝、目を覚ましたナマエは呆れたように笑っていたが、果たして本当はどう思っていたのだろうか。
しつこいと、思われてしまっただろうか。
秋山にとっては、今更確かめることすら躊躇われるような懸念事項である。

だが仮にその四回が一回であったとしても、秋山が今この瞬間に憂慮を抱いていることには変わらなかったはずだ。
果たして、どのくらいの頻度で求めていいものなのか。
秋山には、その答えがさっぱり分からなかった。
試しにインターネットで調べてみたが、情報はソースによって様々だ。
同じ二十代後半の恋人同士でも、回答は毎日から月に一度までと幅広く、とても参考にはならなかった。
秋山自身の要望をありのままに言ってしまうならば、毎日でも抱かせてほしい。
毎晩その唇にキスをして、その身体に溺れていたい。
だがそれがナマエの求める回数と一致しないことは、聞くまでもなく理解していた。
元々、男と女では性欲に差があるのだ。
その上、秋山が思うにナマエはさほどそういった行為に依存するタイプではない。
毎日求められれば、間違いなく鬱陶しいと思うだろう。
だから秋山も、流石に毎日抱かせて下さいなどと勝手なことを言うつもりはなかった。
しかし、ならば具体的に何日の間隔を空ければいいというのか。
三日に一度、五日に一度。
それとも、一週間に一度、半月に一度。
正直、気が遠くなりそうだ。
確かに秋山は、交際を初めてから半年以上、一度も手を出さなかった。
だがそれは拒絶に傷付くのが怖かったからであり、同時に傷付けてしまうことを恐れていたからだ。
恐怖という感情が、欲望を抑え込んでくれていた。
しかしナマエに触れることを許され、秋山の欲望から箍が外れてしまった。
一度溢れ出した欲望は、元には戻らない。
それどころか、もっと、もっとと飢えた獣のように唸るのだ。
ナマエの柔肌を知ってしまった手が、触れたいと願う。
ナマエの温かさを知ってしまった身体の中心が、中に入れてほしいと疼く。
欲求は際限なく膨れ上がって秋山を苛んだ。

以前は、そうではなかった。
ナマエにはとても白状出来ないが、ナマエを想って自らを慰めたことは何度もある。
付き合う前も、後も、この四年近くで何度もだ。
その度に秋山は、絶望するほどの罪悪感と戦ってきた。
ナマエを自らの欲望で穢すなど、秋山にとってはたとえ想像の中であったとしても許されないことだったのだ。
しかし欲求に抗えず、胸の内で何度もナマエに謝りながら、秋山は自らの欲望を慰めてきた。
そのくらい、秋山にとってナマエは神聖な存在だった。

そもそも、と秋山は自嘲する。
元々秋山は、さほど性欲が強くない体質だったはずなのだ。
思春期に入り確かにそういうことに興味を抱いた時期はあったが、それも僅かだった。
男として生理的に溜まるものは溜まるので流石に抜くようにはしていたが、それはあくまで事務的な処理であり、性欲を満たす行為ではなかった。
女性と交際をしても、自ら行為を望むことはなかった。
煩わしいとまで思っていたわけではないが、淡白であったことは間違いないだろう。
秋山は自ら女性を好きになることなどなく、愛しいという感情も知らず、人の温もりを切望したこともなかった。

それが、今やどうだろうか。

「うん、やっぱり秋山が淹れると優しい味になる」

あっという間に秋山の身も心も変えてしまった張本人は、呑気にカフェオレの感想を呟いている。
半月前であれば、秋山はその言葉一つで涙が出るほど嬉しかっただろう。
実際今も、それは間違いなく秋山を喜ばせてくれた。
しかしその先を知ってしまった秋山は、貪欲になった。
そう言った唇を塞いで、まともな言葉など紡げないほど滅茶苦茶にしてしまいたいという凶暴な欲が頭を擡げる。

「そうですか?」

それを取り繕って、何でもないような平然とした表情の下に隠すのだ。

優しい、とナマエは言った。
それが、ナマエが秋山に望むことだろうか。
ならばあの夜の秋山は、決してナマエの望む姿ではなかっただろう。
翌朝起きて確認したナマエの身体は、酷いことになっていた。
肩から鎖骨、胸元にかけて散った、大小様々な内出血の痕。
正直、それが自分たちのことではなく誰か他の恋人同士のことだとしたら、見るに耐えないと思っただろう。
最初のいくつかは意図して残したものだったが、途中からは無意識の衝動だったようで、秋山自身でさえ驚いた。
ナマエの指示通り、制服では隠せない場所に痕が残っていなかったのがせめてもの救いだった。
秋山は、立て続けに四回も行為に及び剰えナマエが気を失うところまで求めてしまったことも含め、土下座に近い状態で謝り倒した。
とてもじゃないが、優しい行為だったとは言い難いだろう。

ナマエはそれで構わないと言ってくれた。
余裕がなくても、情けなくてもいいから、全て曝け出せ、と。
秋山はその言葉を信じ、その言葉に甘えた。
秋山は、ナマエの言葉を疑うつもりはない。
好きだと告げてくれたことも、宗像とは何もなかったと説明してくれたことも、信じている。
確かにナマエは、たとえ心酔に眩んだ秋山の目から見ても、正直と評することの出来る人間ではない。
職務中、必要とあらば虚言も吐くし秘匿もする。
秋山は、長年見つめてきたナマエの仕事に対するスタンスや癖を知っていた。
しかし同時に、ナマエがメリットのない嘘をつかないことも知っているのだ。
ナマエは決して、自らの保身や他人を無意味に傷付けるために虚言を並べる人ではない。
秋山を好きだと嘘をつくことにメリットがない以上、その言葉は真実なのだ。

だから、信じている。
疑ってなどいない。

だがナマエの言葉はあくまで"現在"の話だということを、秋山は決して度外視していなかった。








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