貴女がいる僕の居場所
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午後六時十五分。
引き継ぎを終えた秋山は、着信の有無を確認するため取り出したタンマツに表示された一件のメール通知を見て硬直した。
送信者の名前をまじまじと見つめる。
しかし見間違いではなく、そこには確かに秋山の恋人の名前があった。
一般的には、恋人からメールが届くなど特段珍しいことではないだろう。
人によっては、日に五回も六回もメールが往復することだってあるかもしれない。
しかし秋山にとって、恋人からのメールというのは非常に珍しいことだった。
これまでに全くなかった、とは言わない。
しかし、付き合い始めて半年以上、恐らく送られてきたメールの件数は一桁で足りるだろう。
秋山は期待と不安を半々に抱きながら、メールを開封した。

「………え………?」

そして、再び硬直した。
本文は、然程長くない。
というよりも、たったの一文だ。
秋山が僅か数文字のそれを理解するのに、優に三十秒以上の時間を要した。
普通であれば三秒足らずで読めるはずの文章を五度読み返し、ようやく意味を把握した秋山は、思わず片手で口元を押さえる。
あまりの感動に、言葉が出なかった。

「……秋山?どうかしたのか?」

引き継ぎを終えてもなお情報処理室に残っている秋山を、加茂が訝しげな視線で見遣る。
歓喜に打ち震えていた秋山は、はっと我に返ると表情を引き締めーーーようとして失敗した。

「い、いや。何でもないんだ。お疲れ」

秋山はタンマツを握り締め、そそくさと部屋を後にする。
何があっても、時宜を得ない緊急出動のサイレンなど耳にするわけにはいかなかった。
屯所の本棟を抜け、隊員寮に足を向ける。
隊員寮といっても、秋山の本来の住居がある男子寮ではなく女子寮だ。
清楚な雰囲気の漂う廊下を歩きながら、秋山は己の足音が随分と浮かれていることに気付いて苦笑した。
内心で、無理もない、と自認する。
突然送られてきたメールは、破壊力が抜群だった。

今夜はチキンステーキね。

字面だけを追えば、何とも素っ気ない一文に見えるかもしれない。
だがそれは秋山にとって、四百字詰めの原稿用紙いっぱいに書き連ねられた愛の言葉に匹敵するほど価値のあるものだった。
ちなみにその愛の言葉がナマエ以外からのものであるならば、秋山にとってそれは一片の価値もないただの紙切れと化すのだが。
そのくらい、秋山にとっては感動的な一文だった。
あの、基本的に職務関連の火急な用件以外でメールを送らないナマエが、わざわざ送ってくれたのだ。
しかも恐らく、今夜の夕食のメニューを秋山に伝える、ということは、ナマエにとって然程重要な案件ではないだろう。
これまでに、こんな些細なメールが送られてきたことは一度もなかった。
ならばなぜ今日に限って、ナマエはこんなメールをくれたのか。

たぶん昨日、俺が久しぶりにチキンステーキを食べたいって言ったからだろうな。

それは決して、ナマエへのリクエストだとか、そういうつもりではなかった。
話の流れで何となく口にしただけだ。
だが、ナマエはそれをきちんと拾い上げ、記憶し、そして実現させてくれたらしい。
たかが食事の一品、されど食事の一品だ。
ナマエにとって、聞き流してしまっても何ら問題のない些細な話を、こうして覚えていてくれたということが嬉しかった。
しかも、わざわざメールまでくれた。
秋山が部屋を訊ねれば自ずと分かることなのに、敢えて事前に知らせてくれた。
待っている、という意味が言外に含まれているのだと、そう考えるのは自惚れだろうか。
秋山は緩む口元を自覚しながら、取り出した合鍵で恋人の部屋のドアを開けた。

「あ、おかえりー」

玄関に足を踏み入れたところで、キッチンの向こうから間延びした声が届く。
無造作に寄越されるその言葉がどれほど秋山の胸を温かくするのか、ナマエはきっと気付いていないのだろう。

「ただいま帰りました」

キッチンからひょっこりと顔を出したナマエを視界に映し、秋山は心の底から嬉しくなった気持ちをそのまま笑みへと変えた。
ナマエが「お疲れ」ではなく「おかえり」と秋山を迎えてくれるようになってから、まだ一ヶ月と経っていない。
数週間前に初めて聞いた「おかえり」は、あまりにも幸福すぎて泣いてしまいそうになったほどだった。
まるで、秋山がここを訪ねることを、当たり前だとでも言うかのように。
ナマエは温かい食事と共に迎え入れてくれる。
それは、ナマエにとっては特に何も意識していない単純な日常の一つかもしれない。
だが、秋山にとっては眩暈を起こしそうなほどに幸せなことだった。

部屋に入り、制服の上着とベストをハンガーに掛ける。
数日前から、秋山はこの部屋に己の私物を持ち込んで置いておくようになった。
ずっと、そんな図々しいことを出来るはずもない、と勝手に遠慮していた秋山に、ナマエから提案してくれたのだ。
日用品と着替えくらい置いておけば、と。
秋山は、その言葉に甘えることにした。
替えの制服と、私服やアンダーウェアなどが数点。
歯ブラシやシェーバーなどの、細かな日用品がさらにいくつか。
ナマエのものと並んで、この部屋に鎮座している。

秋山が仕事の時も、泊まらない夜も、ナマエの部屋に自らの証がある。
厚意で許可をくれたであろうナマエには申し訳ないことこの上ないが、その事実は秋山の下劣な所有欲を甘く満たした。

この人の中に、俺の居場所がある。
仮に俺がいない時でも、この人の視界に俺の存在を示すものが映る。

それは、秋山の醜い欲望を満足させた。



「味付け、悩んだんだけどさ。とりあえず今回は、シンプルに塩胡椒。皮はパリッと」

秋山がトイレで制服のスラックスからベージュのチノパンツに穿き替え部屋に戻ると、丁度ナマエが皿をテーブルに並べているところだった。
メインは、言葉通り綺麗な焦げ目のついたチキンステーキ。
鼻孔を擽る匂いに、秋山の胃が空腹を訴えて鳴いた。

本当に重要なのは、夕食のメニューではない。
手に持ったスラックスを掛けるハンガーが用意されていることでもない。
ナマエが自らの側に秋山の居場所をくれることこそが、秋山にとって最も大切だった。
それを目に見える形で教えてくれるのが、先ほどのメールであり、香ばしい匂いのチキンステーキであり、制服を掛けたハンガーであり、二本並んだ歯ブラシなのだ。

「いただきます」

手を合わせ、秋山はナマエのくれる幸せを頬張った。





貴女がいる僕の居場所
- 幸せすぎてちょっとどうにかなりそうです -






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