その唇で嘘をついて[2]
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鍵が掛かっていないのは承知の上で、ノックを二回。
心の中で三秒数え、深呼吸をしてから秋山は目の前のドアを開けた。

「お邪魔します」

三ヶ月前、初めてこの部屋を訪れた時、秋山は「失礼致します」と直立不動の姿勢を取った。
それを見た部屋の主に「上官の執務室じゃないんだから」と苦笑され、それ以来は「お邪魔します」と言うようにしている。
極力静かにドアを閉めて鍵を掛け、男子寮のそれより幾分か機能性の高い部屋に足を踏み入れた。
簡易キッチンの側を抜け、奥の部屋に顔を出す。

「お疲れ」

部屋の主、ミョウジナマエはフローリングに直接座り、ローテーブルの上に置かれたノートパソコンのキーボードに指を走らせていた。
まだ部屋に戻って来たばかりなのか、ナマエは制服姿のままだった。
ナマエの制服は淡島のものとは意匠が異なり、スカートではなくスラックスだ。
上着とベストを脱ぎ、ワイシャツのボタンを三つ開けた姿は、決して淡島ほど露出が激しいものではないのに、どこか視線のやり場に困る色気を滲ませていた。

「すぐ終わるから適当に座ってて」
「分かりました」

ちらりと秋山に投げた視線をすぐさま画面に戻したナマエの言葉に従い、秋山はフローリングに腰を下ろす。
パソコンの画面が間違って視界に入らないよう、テーブルを挟んでナマエの斜向かいを選んだ。
恐らくナマエは持ち帰った仕事をこなしているはずなので、秋山が見ても問題はないのだろうが、どうにも気が引けた。
ナマエを前にすると、秋山はどうしても遠慮や憂懼が先に立ち、自身の行動を制限してしまう癖がある。
それこそここに初めて訪れた日、人生で五本の指に数えられるほど緊張していた秋山は、退勤後に制服を脱ぎ、わざわざもう一組の新しい制服を身に付けてこの場に正座したものだった。
今思えば当然のことだが、ナマエに笑われた。
秋山はそんな過去の醜態を思い返して居た堪れない気分になりながら、ナマエに倣って胡座を掻く。
室内には、キーボードの打鍵音だけが響いた。
リズミカルなそれを聞くともなしに聞いていると、段々と緊張が解れてくる。
三ヶ月も経って未だに緊張すること自体、弁財に言わせればおかしいことなのだろうな、と他愛のないことを考える程度には余裕が出てきたところで、秋山は不意に鼻孔を掠めた慣れない匂いに意識を寄せた。
先ほどまでは気が付かなかったそれを不思議に思い、すん、と小さく鼻を鳴らす。
ナマエの匂いではなく、この部屋の匂いでもない。

ーーー 煙草、か。

思い至った可能性に、秋山は眉を顰めた。
秋山は、ナマエが非喫煙者であることを知っている。
嫌煙家ではないのだろうが、ナマエが煙草を吸っているところは見たことがなかった。
そうなると、この部屋で他の誰かが煙草を吸ったのだろうか。
ナマエの部屋を訪ねて来る可能性のある人物を、秋山は瞬時に脳内でピックアップした。
一番可能性が高いのは、同性である淡島だろう。
しかし彼女も非喫煙者だ。
他に、仕事の用件で特務隊の隊員がここを訪れる可能性は無きにしも非ずといったところだが、特務隊の中で喫煙者は弁財だけだ。
弁財ならば、ナマエの部屋を訪ねることがあれば必ず秋山に報告を入れるだろう。
そもそも、秋山は昨夜もこの部屋で数時間を過ごしているが、匂いには気が付かなかった。
自室に戻ったのは確か夜の十時頃で、弁財と少し言葉を交わしてからそれぞれベッドに入った。
となると、この匂いの原因は弁財ではないことになる。

ならば、一体誰が。

秋山は、そっとナマエの表情を盗み見た。
僅かに眉を寄せてキーボードを叩くナマエは、秋山に何の情報も与えない。
昨夜、秋山が帰った後、ナマエはこの部屋に誰かを招いたのだろうか。
一人で勝手に考えても埒が明かないことだと分かってはいたが、秋山の思惟は深みに沈んだ。


貴女のことが、好きです。
そう言って秋山が積年の想いを告白したのは、三ヶ月と少し前のことだった。
同僚や部下の数名で飲みに行き、いくつかの偶然が重なって二人きりになった帰り道。
酒の勢いがなかった、とは言い切れない。
だが然程酔っていたわけではなく、意識も鮮明だった。
隣を歩くナマエも、軽く回ったアルコールのせいか普段より少し無邪気な明るさを滲ませていた。
その柔らかな笑みに誘われるように、秋山は積もり積もって大きくなった恋心を吐露した。
正直、断られることは覚悟の上だった。
同じ職場の同僚として、元部下として、嫌われてはいないだろう、程度の自負はあったが、男として好かれているとはとても思えなかった。

だから、最初は信じられなかったのだ。
そして実を言うと、今でもあまり実感出来ていない。

「ん、終わった。お待たせ」

この人が、自分の恋人になってくれた、ということを。


「……いえ、お疲れ様です」

秋山は、渦巻く疑問と煩悶を纏めて胸の奥に押し込み、常のように笑みを浮かべた。
ノートパソコンを閉じたナマエが、ぐっと両腕を上げて伸びをする。

「室長も、なんでこう人使いが荒いかなあ」

半ば笑い話のように零された愚痴に苦笑しかけ、秋山ははっと表情を固めた。
到底忘れることなど出来ない存在なのに思い浮かばなかったのは、無意識のうちに度外視していたからなのか。
室長、宗像礼司は喫煙者だ。

まさか、室長が?

秋山は、投げ込まれた一つの可能性に、身体の芯がすっと冷えるのを感じる。
決してあり得ないことではなかった。
宗像の一人目のクランズマンは、王になったその瞬間偶然側に居合わせた淡島だという。
そして二人目が、国防軍から宗像に直接引き抜かれたナマエだ。
秋山と弁財は、ナマエを引き抜くために司令部を訪れた宗像の目に偶然留まり、共に勧誘を受けた。
宗像とナマエにどのような繋がりがあるのか秋山は知らないが、二人の間に独特の空気感があることには気付いていた。

「コーヒーでいい?」

宗像が、この部屋を訪れたのだろうか。
秋山が帰った後の、深夜と呼ぶに相応しい時刻に。
ただの上司と部下ならば、そんなことをするだろうか。

「秋山?」
「ーーっ、あ、はいっ、」

ふと、名前を呼ばれ振り向けば、キッチンから顔を覗かせたナマエが訝しげに秋山を見ていた。

「なに、どうかした?」
「いえ、何でも……、すみません」
「……そ?まあいいけど、コーヒーでいい?」
「はい、すみません。お願いします」

ん、と短く答えたナマエが、キッチンの奥に消える。
湯を沸かす音を聞きながら、秋山はそっと溜息を零した。
昨夜、室長と共に過ごしたのですか、など。
まさか、問い質せるはずもなかった。





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