その唇で嘘をついて[1]
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大学を卒業し、国防軍に入隊したのが齢二十二の春だった。
その後、想定外の転職があり職場こそセプター4という組織に変わったものの、追い求める姿は変わっていない。
あの頃も、今も。
視線の先にいるのは、ただ一人だ。


「秋山ぁ」
「っ、はい!」

年齢は、秋山よりも一つ上。
黒髪を無造作に捻って結い上げているが、淡島のようにきちんと留めているわけではないようで、全体的に緩い印象を受ける。
椅子に座ったまま振り向いたその首筋に垂れた後れ毛が、ふわりと揺れた。

「これ伏見さんに回しておいて。巡回行って来る」
「分かりました、お預かりします」

呼ばれて足早に近付けば、ひょい、と軽々しく手渡される書類の束。
受け取る際にちらりと見上げられ、制服の奥で鼓動が跳ねた。

「ああそれと、さっきのデータ、確認した。問題ないからそのまま進めて」
「あ、はい。ありがとうございます。終わったらミョウジさんのパソコンに転送すればよろしいですか?」

視線はすぐさま逸らされ、安堵と落胆、矛盾した感情だけを秋山に残していく。

「うん、それでいい。お願いね」

腰を上げ、立て掛けてあったサーベルを片手で掴み取り颯爽と情報処理室を出て行く後ろ姿を、秋山は一礼と共に見送った。

ミョウジナマエ。
国防軍に所属していた時代、秋山と弁財の上官であった、今は同僚の女性である。

戦闘部隊に身を置く者としては当然のことかもしれないが、ナマエは女という性を前面に押し出すことをしない。
香水を身に纏うこともない。
だが、残された秋山の鼻孔を擽るのは、どこか女性らしい柔らかな匂いだ。
シャンプーか、もしくは保湿クリームのようなものか。
決して鼻につくことのない、自然で優しい香り。
秋山は、ナマエが出て行った豪奢な扉をじっと見つめた。

「……秋山。………秋山!」
「ーー、え、あ、なに?」

思惟に飛び込んできた呼び掛けに振り向けば、そこには呆れを存分に含んだ表情の弁財が立っている。
国防軍時代からの長い付き合いになる同僚は、頭痛を堪えるように蟀谷を抑えて目を閉じた。

「書類、落ちてる」

端的な指摘にはっと視線を落とせば、床に散らばる数枚の紙。
どうやら腕の中から何枚か落としてしまったらしいと、秋山は慌ててしゃがみ込んだ。
ナマエに渡されたものだ。
汚したり、万が一にも紛失するようなことがあっては顔向け出来なくなってしまう。
秋山は急いで書類を掻き集めた。

「……お前は本当に……、いつまでも変わらないな」

心底呆れたとばかりに苦笑され、秋山は羞恥と気まずさを誤魔化そうと自分のデスクに戻った。
書類を置き、散乱してしまった分を元通りの順番に戻そうと検分する。
それはここ最近発生したストレイン事件のデータで、それぞれのページが丁寧に纏められていた。
一目見て、分かりやすいとしか言いようのない完璧な書類だ。
作成者本人の普段の態度や性格を鑑みると、少しばかり意外にさえ思えてしまうそれを順番通りに重ねていく。
国防軍時代、情報分析官としても優秀だったナマエを知っている秋山は、相変わらず隙のない仕事ぶりを素直に尊敬した。

「もう何年だ。そろそろ慣れてもいい頃じゃないのか」
「……三年、だな。自分でもそう思うよ、弁財」

視線で、そして実際に追い掛けるようになって、もう随分と長い時間が経つ。
だが、いつまで経っても言葉一つを交わすことにすら緊張が伴った。

「まあいい。とりあえず、早いところ終わらせるぞ」

国防軍にいた頃からずっとバディを組んでいる弁財は、秋山がナマエに向ける感情をよく知っている。
今更何を言ったところで、秋山の崇拝にも近い想いが揺らがないことなど分かりきっているのだろう。
秋山は苦笑を返し、纏め直した書類をデスクの端に置いて自らの仕事に取り掛かった。


今思えば、殆ど一目惚れに近かった。
国のため、国民のため、青臭い言い方をすれば正義のため、軍人になった。
決して衒気や格好付けのつもりはなく、厳しい訓練に従事し、邁進する日々だった。
男ばかりの、泥と汗に塗れた毎日。
確かに、女っ気がなかったのは事実だ。
だが、周囲が女に飢えたと騒ぐほど秋山はそれを意識していなかったし、どちらかといえば男ばかりの厳しくも連帯感の強い仲間との生活に満足していた。
だから、誰でも良かったわけではない。
男ばかりの生活に影響され、目が眩んだわけでもない。
それが、ミョウジナマエという人だったからだ。

情報分析官の一人だと紹介されたのは、男性隊員と同じ軍服に身を包んでいてもなお軍人には見えない女性だった。
微かに覗く気怠げな色気と、とても集団生活に身を置くようには見えない飄々とした物腰。
掴み所がなく、決して我が強いわけでもないのに、まるで水のようにどこにでも流れ、形を変え、緩やかに周囲を魅了する。
それが一転、仕事となると情報分析官という名の通り、情報処理のエキスパートであるナマエは他の追随を許さない手腕を発揮して事に当たる。
それまでに出会ったことのないタイプだった。
年は一つしか変わらないが、高卒で入隊したナマエは、組織の中では秋山の大先輩に充たる。
直属の上官ではなかったが、学ぶこと、世話になることは多かった。

初対面で興味を引かれ、何度か顔を合わせるうちに、秋山は自分の感情を違うことなく自覚した。
理屈ではなく、まるで身体の細胞が勝手に反応するかのごとく、ナマエの一挙手一投足に視線を奪われた。
声を掛けられれば心が浮つき、褒められれば全身を幸福が満たし、逆に叱責されれば必要以上に落ち込んだ。
近付きたい、認められたいという欲求は日増しに膨らみ、やがて秋山の根幹を成すに至った。


「伏見さん、こちら、ミョウジさんから伏見さんに渡してほしい、と」
「ん、……ああ、分かった」

秋山は、室長室から戻って来た伏見に預かっていた書類を手渡す。
最初の数枚を捲った伏見は、すぐに問題ないと判断したのかそれをデスクに置いた。

今、秋山や弁財と共に国防軍からセプター4に移ったナマエは、伏見の部下という立場にある。
特務隊情報班隊員。
それが、今のナマエの肩書きだ。
秋山も、無論伏見も、ナマエがそれ以上の実力を持っていることは知っている。
ナマエは、副長という立場にさえ立つことが出来るほどの人材だ。
しかしナマエはそれを望まず、伏見の右腕というポジションを選んだ。
本人曰く、その方が性に合っている、ということらしい。
特務隊に配属となり、ナマエに関する人事を耳にしたとき、秋山は彼女らしい、と感じた。
国防軍にいた頃から、ナマエは役不足な立ち位置を好む傾向が強かった。
その結果、今の時点で秋山とナマエは指揮系統上同列の隊員ということになる。
だが、年齢や元々の上下関係が認識の根底にあるため、秋山や弁財は今でもナマエを上官のように仰いでしまう。
それに対し、ナマエは何も言及しなかった。


「早番だろ。片付いたら上がっていい」
「分かりました」

デスクに戻った秋山は、纏め終えた資料のバックアップを取り、データをナマエのパソコンに転送してから電源を落とす。
一日内勤に徹したせいか、少し肩が凝っていた。
軽く首を回しながら、席を立つ。
巡回に出たナマエは、まだ戻って来ていなかった。




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