[1]振り返った在りし日
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冷たい、ナイフのような雨だ。

太陽の姿を飲み込んで広がる、濃い灰色の雲。
夜になって気温がさらに下がれば恐らく、雨は雪に変わるだろう。
そう思わせるほど、降り注ぐ雨は冷たく鋭かった。

制服の青色が、その濃さを増す。
水分を多量に含んだ生地は重く、ぬかるんだ地面に飲み込まれてしまいそうな錯覚さえ感じられた。

重い灰色の、不明瞭な視界。
低い空を見上げて佇む男の視線の先に、一本の剣が浮かんでいた。
刀身はひび割れ、装飾は剥がれ落ち、今にも瓦解してしまいそうな脆い剣。
その弱々しい光とは裏腹に存分な脅威を孕んだそれを、見上げる。

時間はもう、残されていなかった。







「あ、伏見だ。おかえり」

へらりとした締まりのない顔、呑気な口調。
その人は、火のついていない煙草を唇に咥え、屯所の敷地内にある道場の裏口に凭れ掛かって立っていた。
青雲寮に戻ろうとしていた伏見は、鉢合わせた人物が誰であるかを認め、思わず顔を背ける。
そんな伏見の態度を意に介した様子もなく、女は片手を挙げた。
その手の動きにつられるように、闇に溶け込むような黒髪が舞う。

「……こんな時間に何やってんですか」

コンビニで購入した飲み物の入ったビニール袋を手に提げたまま、伏見は少しの距離を置いて立ち止まった。

「ん、見ての通り一服」

未だ制服を着ているところを見る限り、残業を終えた直後なのだろう。
寛げられた首元から、気怠げな雰囲気が滲み出ていた。

「丁度良かったよ伏見。火、つけて」

女の口元で、白い煙草が揺れる。
伏見は盛大に溜息を吐き出し、渋々といった体で残しておいた距離を詰めた。

「あんた、何回目だと思ってんですか。なんでいっつもライター持ってないんですか?」

伏見は苛々とした口調で突っ掛かりながらも、空いている右手に力を集める。
指先から炎が立ち昇り、一瞬で女の咥えた煙草の先端を橙に燃やした。
伏見をライター代わりにする人間など、後にも先にも彼女だけだろう。

「ありがと、助かった」

美味しそうに煙を吐き出してから、女は満足げに笑った。


初めて会った時も、そうだった。

伏見がセプター4に入隊し、宗像に連れられて初めて情報室を訪ねた日。
そこで、この女に、ミョウジナマエに出会った。
何かあれば彼女に聞いて下さい、という宗像の指示により、実質的に伏見の教育係となったのがミョウジだった。
人に物を教わるなんて冗談じゃないと、伏見は初対面から舌打ちを見舞ったが、その時もミョウジは何も言わずに笑っただけだった。

思考や感情の読みにくい、伏見にとっては不可解な相手だ。

元々、伏見は人間が嫌いだ。
そこに各々のプロフィールやステータスなどは関係ない。
だが、敢えて性別で区分するならば、男よりも女の方が嫌いだった。
女は群れ、甲高く耳障りな声で余計なことまで話し、感情の起伏が激しくて面倒臭い。
伏見にとって、それが女という生き物だった。
特にセプター4に入隊した頃は、大貝阿耶の一件がまだ痼りとなって残っていた。
だからこそ、伏見は早々にミョウジナマエを関わりたくない相手として明確に拒絶したはずだった。

「へえ、吠舞羅の子なんだ」

宗像のいなくなった情報室で物珍しそうに見つめられ、伏見は歯噛みした。
裏切り者、スパイ、何とでも言えばいいと思っていたが、それでも面と向かって興味本位とばかりに突かれれば腹が立つ。

「…だったら何だって言うんですかぁ?」

何でセプター4に来たのか、何で裏切ったのか、そんな下らないことを聞かれると思った。
しかし、伏見の予想は裏切られた。

「ってことはつまりさ、赤の力も使えるんだよね?」

青と赤、二色使い。
隠す必要はない、と宗像から言われていたので曖昧に頷いてみせれば、ミョウジは嬉しそうに笑って。

「煙草、付き合って。今日部屋にライター忘れてきちゃって」

そして、は、と固まった伏見の手を呆気なく引くと、そのまま外へと連れ出した。
訳の分からぬまま、伏見は言われた通りにミョウジの煙草に火をつける羽目に陥ったわけである。

「すごい、本当に火が出るんだねえ。それ、青より便利そう」

呑気な調子で感想を並べるミョウジを見て、伏見は自身を棚に上げ、この女はクランズマンを何だと思っているんだ、と呆気に取られた。
確かに吠舞羅では周防も煙草の火をつける際に赤の力を利用していたが、しかし便利か否かでクランの力を比較するものでもないだろう。

妙な女だなと、伏見は小さく苦笑した。

恐らくその時にはもう、伏見が作り上げたはずの壁など壊されていたのだ。
窮屈な制服、邪魔なサーベル、立ち昇る煙草の臭い、側に立つ他人。
本来ならば全てが不愉快で苛立たしかっただろうに、その時伏見の機嫌は悪くなかった。

「また忘れたらよろしくね、伏見」

隣にいる、女のせいだった。






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