[17]この生に、感謝と祝福を宗像は、目の前に差し出された少し歪な包みを見て心底驚いた。
受け取ることも、言葉を発することも忘れ、固まった。
その日宗像は仕事の酒席で外出しており、寮に戻ったのは日付が変わる直前だった。
玄関ドアを開けると、そこにはすでに黒いブーツが揃えて置かれており、気付いた宗像は口元が緩むのを抑えきれなかった。
ナマエが来ているとは知らなかったが、それはさほど意外なことではない。
宗像は、自分が不在の時でもこの部屋を自由に使う許可をナマエに与えているし、ナマエが勝手に上がり込むことも珍しくはなかった。
この時間ならばもう寝ているだろうと、宗像は寝室に直行する。
しかし、ドアを開けた先にあるベッドに、ナマエの姿はなかった。
読みが外れた宗像はおや、と首を傾げ、リビングに向かう。
するとそこには、ソファの背凭れに身体を預けて眠るナマエがいた。
ナマエは宗像の部屋の中であれば、基本的にどこでも寝てしまう。
だから、ソファをベッド代わりにすることも良くあった。
だが、横たわることなく、座ったまま眠る姿を見ていると、もしかしたら待っていようとしてくれたのではないかと、そんな期待を抱いてしまう。
宗像はゆっくりとソファに近付き、隣に腰を下ろした。
「…………ん、」
音は立てなかったつもりだが、気配に気付いたのだろう。
ナマエが微かに身動ぎ、やがてゆるりと瞼を持ち上げた。
「すみません、起こしてしまいましたね」
宗像が横から声をかけると、ナマエがゆっくりと振り向いた。
「……れーし、さん……?」
寝起き特有の、少し掠れた声。
たどたどしい口調と相俟って、甘えているように聞こえてしまう。
「はい、ただいま帰りました。遅くなってしまってすみません」
きっと、待っていてくれたのだろう。
そんな期待も込めて謝ると、あ、と小さく呟いて、ナマエが背凭れから身体を起こした。
慌てた様子で、ナマエがローテーブルに置かれたタンマツを取り上げる。
「よかった……」
そこに表示された時刻を見て、ナマエはそう零すと、ソファの端に掛けられていた制服の上着の下から小さな紺色の包みを取り出した。
「……礼司さん、これ、」
そしてそれを、宗像に差し出した。
10月1日、23時52分
タンマツに表示された日付に、宗像は期待してしまう。
あと八分で終わってしまう今日は、宗像の誕生日だ。
ナマエと出会ってから、これが四回目の宗像の誕生日だ。
一回目は、ナマエが宗像の誕生日どころか、誕生日そのものの存在を知らなかった。
二回目の誕生日は、宗像は丁度出張で地方に行っていた。
三回目の誕生日は、宗像がナマエを誘い、二人で夕食を食べた。
といっても、誕生日だからどうということはなく、普段と何ら変わらない食卓だった。
だが、宗像にはそれで充分だった。
ナマエに誕生日を祝ってもらおうなんて、そんなことは絶対に思わない。
自分が生まれたことすらめでたく思えるはずがないのに、他人の誕生日を祝わせるなんて、そんなことはしない。
だから、ただ傍にいてくれさえすれば、それだけで良かった。
そして四回目の今日。
生憎と宗像は酒席があり、夕食を共にすることは出来なかった。
タイミングの悪さを呪い、残念に思っていた。
だから、部屋で待っていてくれただけで、嬉しかったのに。
「……あの、いらないなら、その、大したものじゃなくて……何がいいのか、分からなくて、だから別に、」
言葉を失くして硬直した宗像の態度を誤解したのか、ナマエが急に言い訳のような言葉を並べ立てる。
包みを持った手を引っ込められ、宗像は慌ててその手首を掴んだ。
「ナマエ。……私の勘違いなら、訂正して下さい」
「………え?」
気まずげに彷徨っていたナマエの視線が、宗像を捉える。
「これは君から私への、誕生日のプレゼント、と解釈してもいいのですか?」
タイミングを考えれば、妥当だろう。
だが、ナマエが誕生日にプレゼントを用意するなど、考えられなかった。
だから、こくり、と一つ頷かれ、宗像はあまりの幸福感に目眩がした。
「……ありがとうございます。本当に、ありがとう。とても嬉しいです」
プレゼントごと、ナマエの身体を抱き締める。
これは、ナマエが人生で初めて用意した、誕生日プレゼントだ。
それだけで、宗像は天にも昇る心地だった。
「開けてもいいですか?」
ようやく、包みをナマエの手から受け取る。
ナマエは曖昧に小さく頷いて、そのまま俯いてしまった。
考えていることは、よく分かった。
なにせ、初めての経験だ。誕生日プレゼントに何を贈れば良いのかなど、分からなかったのだろう。
だから、宗像が気に入るかどうかを心配しているのだ。
はっきり言って、無駄な心配である。
宗像には、たとえ中から餡子の缶詰が出てきたとしてもこの幸福感は失われないという確信があった。
「……写真立て、ですか?」
包装紙を丁寧に開くと、現れたのは木製のフレームが手に優しく馴染む写真立てだった。
シンプルで、余計な飾り気のない、だが質の良さそうな品だ。
「………何がいいのか、分からなくて、」
それで、あの、とたどたどしいナマエの説明を要約すると、このような感じだった。
宗像の誕生日にプレゼントを贈ろうと思ったが、何を贈れば良いのか分からなかった。
そんな時、仕事の都合で淡島の部屋を訪ねる機会があった。
そこで、部屋に飾られた写真立てを見つけた。
今時写真は画像としてタンマツやPCに保存されるので、紙媒体の写真を見たのは初めてだった。
淡島に、データとして残すのも良いが、こうして現像するとそれは特別な一枚になるのだと教えられた。
「……それが、なんかいいなって、思ったん、です」
ナマエはこれまで、仕事上の証拠写真以外で、写真を撮ったことがない。
人生の一場面を切り取って残すことに、意味など見出せなかった。
宗像が時折ナマエの写真を撮ろうとするが、その意味も分からなかった。
「……でも、そういうこと、してみるのも、いいのかなって」
「ナマエ……」
気恥ずかしそうに視線を泳がせ、ナマエがはにかむ。
「……写真、撮って。いつか、こんなこともありましたね、って、話したり……飾った写真見て、この時はこんなこと話したって、思い出したり、するのも、」
宗像は、一生懸命に言葉を探して伝えてこようとするナマエを、真っ直ぐに見ていた。
胸が、いっぱいだった。
「…………礼司、さん」
「はい」
思っていること、考えたこと。
それを伝えるのが、苦手なのだろう。
仕事のことならば宗像に何の遠慮もなく意見するのに、プライベートになった途端、ナマエのコミュニケーション能力は酷く幼くなる。
それは、感情が介入するからだ。
「……私、思いました。……生まれてきて、よかったって、思ったん、です。……だって、礼司さんに、会えた」
何か、言いたいのに。
何も、言葉にならない。
宗像は呼吸を止め、見上げてくるナマエをただ見つめ返すことしか出来ない。
「……だから、礼司さんの生まれた日、お祝いしたいって、思った」
それは、あまりに唐突だった。
宗像の頬に、一筋の涙が伝う。
滑り落ちた涙は、宗像が両手で抱えていた写真立ての上にぽたりと落ちた。
「……え……、あ、何か変なこと言いま……っ」
写真立てをソファに置き、手を伸ばす。
難なく腕の中に収まった身体を、宗像は掻き抱いた。
ずっと、その言葉が聞きたかった。
生まれてきてよかったと、生きていてよかったと、その言葉を待っていた。
苦しかった過去は変わらない。
死にたかった過去は消えない。
それでもいつか、過去を上塗りするだけの幸せを、感じてほしかった。
生きていることを嬉しいと、楽しいと、感じてほしかった。
「ナマエ………っ」
目頭が、痛くなるほど熱い。
喉が引き攣れ、呼吸が乱れる。
それでも、抱き締めた腕だけは解けなかった。
「……俺も、よかった」
「………え?」
ただの人間では、なくなってしまった。
いつか、あの剣を墜とす日が来るのかもしれない。
それでも。
「俺も、生まれてきてよかった。ナマエ、君がいるから、そう言える」
今度の非番の日、また一緒に水族館に行こう。
そこで、二人で写真を撮って、それを飾ろう。
宗像の提案に、ナマエは笑って頷いた。
今度こそベッドで眠るナマエの隣に寝そべり、宗像はサイドテーブルに置いた写真立てを手に取る。
きっと、購入した店でプレゼント包装が出来ることを知らなかったのだろう。
テープの多い、ちぐはぐな包装紙。
宗像はくすりと笑い、ふと写真立てを裏返した。
四方のストッパーを捻り、バックボードを外す。
すると、フェイシングペーパーが現れた。
「………え……?」
表から見ると青い花が描かれていた、その紙の裏。
礼司さん
誕生日おめでとうございます
この四年間、ナマエの口からは一度も聞いたことのない言葉。
言わせる必要などない、言葉はなくていい。
そう思っていた、言葉。
いつもの細い筆跡で残されたメッセージに、宗像はそっと唇を押し付けた。
来年も、その次も、またその次も。
まだ見ぬ終焉の、その瞬間まで。
「……ずっと、傍に、」
その刻が訪れる刹那まで- 君の笑顔が、少しでも多くあらんことを -prev|next