対岸までの距離からん、と耳に心地好い音がした。
暖色の間接照明は淡く、緩やかに店内を照らす。
見渡す、という表現が大袈裟になってしまうほど、狭い店だ。
ドアを開けた次の瞬間にはもう、自分が唯一の客となったのが分かってしまう。
かつん、と革靴の音が木目に吸い込まれた。
バーカウンターの向こう。
大小様々な形のボトルが並ぶシェルフを背に、バーテンダーが立っている。
女はグラスを磨く手を止め、薄く笑った。
「こんばんは、室長さん」
す、と音もなくグラスがカウンターに置かれる。
宗像は常のように笑みを張り付け、左から二番目のスツールに腰を下ろした。
女は何も言わず、背後のシェルフを振り返る。
そして、そこから一本のボトルを持ち上げた。
ことり、と微かな音がして宗像の前に背の低いグラスが出される。
琥珀色の液体が、少し揺れた。
「ありがとうございます」
宗像は眼鏡の奥で目元を緩め、グラスに手を伸ばす。
何も言わずとも出された酒は、いつもと同じ。
喉をじっくりと焼くアルコールに、目を伏せた。
「今日は可愛いお連れ様は?」
女の問いに、宗像は苦笑する。
可愛いお連れ様、が前回取った奇行を思い出すだけで、舌に不快感を覚えた。
「餡子マティーニは、もう遠慮させて頂こうかと思いまして」
くすり、と女が笑った。
「では私も、豆打を仕入れる必要はなさそうですね」
「ええ、結構です」
宗像が即答すると、女はもう一度笑う。
唇に乗った紅が、弧を描いた。
「私としても、彼女の嗜好は受け入れ難いのですよ」
宗像はそう言って、グラスを呷った。
ダブルで注がれたウイスキーは、あっという間に宗像の体内に消えた。
同じものを、と言う必要はない。
グラスが空になると同時に、新しいものと取り替えられる。
そして、添えられた硝子の灰皿。
宗像は喉の奥で笑った。
「無愛想なお連れ様は、と聞いた方が?」
そして、降ってきた問い。
眉間に皺が寄ったことを自覚した。
「おや」
胸元から煙草のケースを取り出し、引き抜いた一本を口に銜える。
今夜は、そこに指先で火を点ける男はいなかった。
かちん、とライターが鳴る。
「俺一人では、不満だと?」
小さな火は煙草の先端を橙に燃やし、煙となって立ち昇った。
毒素を肺に吸い込み、細く吐き出す。
細胞の一つひとつに沁み渡るような心地に、眉を顰めた。
「そうだと言ったら?……宗像さん」
女は薄く笑ったまま、宗像に倣うようにシガレットケースを引き寄せた。
細い指が、煙草を挟む。
立ち昇る煙が、二本になった。
「それは残念極まりないな」
宗像の答えに、女は何も言わなかった。
とん、と指先で煙草を弾き灰を落とす。
宗像は、この女のことを何も知らなかった。
調べられないわけではない。
舌打ちが癖の優秀な部下に一言命じれば、唯識を起動させるまでもない。
一分後には、名前と年齢、住所に誕生日に血液型、果ては学歴から家族構成、タンマツの番号に至るまで、情報は何でも手に入る。
だが宗像はそうしなかったし、そうする必要性も感じていなかった。
路地裏にある、目立たない小さなバー。
間違っても、あの男が寝床にしているバーのような騒々しさはなく、喧騒からは程遠い。
息抜きと称して執務室を抜け出し、偶然この店を見つけたのは何時のことだったか。
ぐしゃり、と短くなった煙草を硝子に押し付けた。
立ち昇る煙が一本になる。
その下で、女は常と変わらない笑みを浮かべたままだった。
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