さよならの代わりに[2]
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「お手伝いしましょうか、ミョウジ先生」

それは、冬休みに入る前日。
土方先生に頼まれて、資料の山を抱えながら廊下を歩いていた時のことだった。
偶然廊下の角を曲がって歩いてきた斎藤君が私の姿に気付き、足早に近付いてきた。

「あ、ううん。大丈夫、」

生徒に雑用を手伝わせるなんて、申し訳ない。
何より、斎藤君だ。
これ以上、不用意に距離を縮めたくはない。

「こういうことは、男手を借りるべきです」

でも、そんな私の心情になんて気付かないのか、それとも気付いていて知らないふりをしているのか。
斎藤君は私が抱えていたファイルの大半を、ひょいと取り上げてしまった。
私の手の中に残ったのは、ほんの数冊だけ。

「どこまで運べばいいですか」
「………国語科準備室まで、お願い」

そう答えると斎藤君は一つ頷き、大量のファイルを難なく抱えたまま再び歩き出した。

その後ろ姿は、大きかった。
斎藤君は決して大柄ではなく、身長もさほど高くない。
でも私よりは長身で、その背中は立派に男の人のものだ。
高校生はまだ子どもだと、そう思うけれど。
身体的な成長を考えれば、もう大人の男と何ら変わりないのだ。


「ごめんね、助かりました。ありがとう」

辿り着いた国語科準備室に、土方先生はいなかった。
先程の校内放送で職員室に呼び出されていたから、恐らく用事がまだ片付いていないのだろう。
空いたデスクの上にファイルを積み上げ、私は斎藤君にお礼を言った。

「いえ、」

斎藤君は言葉少なにそう答え、微かに首を振った。

いつもそうだった。

斎藤君は事ある毎に、私を訪ねてきた。
三年生になってからは特に、それが顕著だった。
でも、決して生徒の領分からは足の指先一本はみ出さないのだ。
授業内容の質問、進路の相談、委員会の報告。
いつだって、生徒として教師である私の元にやって来た。
不用意に私のプライベートに干渉することはなく、また斎藤君も彼自身のことは話さなかった。
例えばもっと図々しく、あれやこれやと言って迫って来たら、私は教師として注意することが出来ただろう。
立場という武器を前面に押し出して、拒絶することが出来ただろう。
でも、何の下心もない生徒として振る舞われてしまうから。
たとえそれが建前であったとしても、私の立場では拒絶出来ないのだ。

「もう大丈夫だよ?」
「いえ。土方先生に用事がありますので、ここで待たせて頂いてもよろしいでしょうか」

ほら、そうやって。
私から、駄目と言う術を奪ってしまう。

「………お茶、飲む?土方先生の緑茶しかないけど」

これ以上、近付きたくないのに。
必要以上に関わりたくないのに。

「はい、頂きます」

そんな風に、嬉しそうに静かに笑うから。
私は、絆されてしまいそうになるの。



斎藤君の好意を確信した時、一番最初に感じたのは戸惑いだった。
どうして私なんかを、と。
教師と生徒。
もちろんありえない話ではないのだろうけれど、何をどう考えたってご法度だ。

当時、大卒一年目。
高校生なんて、恋愛という意味においては全く興味の対象外だった。
物好きな子もいるんだな、と。
そんな風に、思っていたのに。


「はい。ごめん、ちょっと渋いかもしれないけど」
「ありがとうございます」

高校三年生。
誕生日は知らないけれど、遅くても次の春までには十八歳になる。
私は今、二十四歳。
その差は六歳。

教師と生徒という関係なら、タブーかもしれない。
でも、そうではなかったら。
六歳差のカップルなんて、どこにでもいるだろう。

いつだったかふと、そう考えてしまった時。
私は、自覚させられてしまったのだ。

「美味い、です」
「そう?なら良かった」

気付かされて、しまったのだ。

「………あんたが、淹れてくれたから、」

私も、この子のことが気になっているのかもしれない、と。


とん、と。
カップをデスクの上に置く音が、なぜか大きく響いた。
斎藤君が椅子から立ち上がり、壁に寄り掛かって立っていた私の方へと歩いてくる。
真っ直ぐに見つめてくる視線から、目が逸らせなかった。

「斎藤君、どうかし、」
「ナマエさん」

その瞬間が、初めてだった。
初めて斎藤君が、境界線を越えたのだ。

「あんたはもう、とっくに気付いているはずだ」

今にも、どちらかが少し身を乗り出せば、抱き合えそうな距離で。
斎藤君は、間近に私を見下ろした。
淡々とした口調とは裏腹に、その目は激しく揺らめいていた。

「俺の想いを、知っているはずだ」

何の話、と。
とぼけることも出来た。
やめなさい、と。
諌めることだって出来た。
それなのに、私の喉はまるで声の出し方を忘れたみたいに干上がり、何も言えなかった。

斎藤君が、じわりじわりと残り僅かな距離を詰めてくる。

キスをされる、と。
そう思った時、嫌悪感なんてなかった。
僅かな胸の高鳴りすら、感じてしまっていた。

息を詰める直前、無意識に深く吸い込んだ空気。
その時、この部屋を根城にしている土方先生が吸う煙草の匂いが、なぜか強烈に脳を刺激した。
刹那、思い出す。


"相変わらずあいつは文句の付け所がねえな"



「……っ、……やめなさい、斎藤君」

絞り出した声が、果たしてきちんと教師としての威厳を保っていたのか。
全く自信はなかった。
でも、斎藤君の行動を止めるにはそれで充分だった。
無理矢理、強引に。
そんな手段に出る子ではないと、分かっていた。

「私は、貴方の先生よ。まだ新米で、歳も近くて、そうは思えないかもしれないけれど、」

でも、私は教師で、斎藤君は生徒だ。

「何も、なかったことにしておくわ。……土方先生なら、職員室にいるから。行きなさい」

誰もが、認めている。
誰もが、期待している。
斎藤君には、輝かしい未来が待っているだろう。
大学を出て、就職して、結婚して。
そんな、幸せな人生が待っている。

だから。
私がここで、道を踏み外させるわけにはいかないの。


「ナマエ、さん…」

掠れた声に、胸が軋んだ。
そして、確信した。

「ミョウジ先生、よ」

やっぱり私は、斎藤君のことが好きだ。

「俺は……っ、」
「斎藤君、」

優しくて、生真面目で、自分に厳しく、誠実な。


「あのね。私、お子様には興味ないの」


貴方のことが、とても、好きだ。



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