捌
まるで鋭利な刃物を思わす雰囲気を纏う竜神とその家臣をここまで驚愕させる者もいないだろう。
やれやれ、と声には出さず息を吐き、光秀は掌に鎌の柄を馴染ませる。無機質である筈の鎌から微かな拍動を感じた。
お前も久方ぶりの獲物に興奮を抑えきれないようですねえ。
薄い唇をニイイと引き上げ、長い舌で唇を湿らせる。ちらりと覗く歯が月の光を受けて青白く光った。
「そろそろお始めなさい。月が翳ってしまえば此方の不利になりますよ」
「ん」
水晶盆の中に写り込む月の姿を確認し、彌生は掬った水を口に含んだ。ひやりとした水が口内を浄め、そのまま喉を通り落ちていく。口端から零れた水を指先で拭いながら、懐紙で濡れた手の水気を取った。
ただの動作。しかし、そのひとつひとつの所作を眺めていれば不思議と心や頭が冷静に、落ち着いていくのを政宗は感じた。
無表情に見つめてくる政宗に彌生は小さく微笑み返し、怖くないよと囁いた。そんなんじゃねえ。いつもなら口悪く出る言葉が常以上に穏やかで、目を合わせてふっと表情を弛める。
「じゃ、早速始めよっか」
「おう」
これから起こる事の重大さなど微塵も感じられない二人のあっけらかんとした様子に小十郎は思わず口を挟みそうになったが、横から胸前へと伸びてきた白く細長い人差し指に止められた。
「ちんちくりんでも神籬なのですよ?」
仕える竜神が身を委ねているのにその力を侮りなさるのか?そう言外に匂わせた光秀に小十郎はそれ以上何も言えず口をつぐんだ。それでも口以上に眼が不安だと告げている。
そんな視線を注ぐ小十郎を横目に光秀も前の二人を見た。
竜神にまとわりつく呪が以前に比べ黒く淀んでいる。蠢く呪は肌を酷く緩慢な様子でねっとりと這っている。じわじわじわじわと時間をかけて蝕んでいく型の呪。
これは相当タチが悪い。しかし、気は合いそうですかねえ…。
月の光りが水晶盆を淡く照らせば水晶を通した光りが床に散らばった。
彌生が政宗の頬に手を添える。ふ、と微笑み、ゆっくりと顔を近付けた。目を瞑る政宗。細く、幼い指が眼帯を外す。はらりと落ちたそれを見やる。長い睫毛に縁取られた右目を彌生の舌がそっと這い、にゅるりと差し込まれた。
痛みはない。温かで滑らかな何かが眼球を滑っているという事だけ分かった。
表面を撫でたそれは眼球の下を這い、くん、と後ろから軽く力を加える。
ころり。
灰白濁色の球体が彌生の舌上に転がっていた。
「あなたはこっちにおいで」
代わりに神籬の目玉をあげようね。
彌生は自身の右目を政宗の暗い眼窩へあてつける。ぐ、と顔を押し付け、ゆっくりと体を引いた。
落ち窪んでいた政宗の右目がぽこりと膨らんでいる。そっと持ち上げられた右目蓋の下には、左目と比べて少し色素の薄い目玉が仕舞われていた。
上手く入った事を確認して彌生は小さな安堵の笑みを溢してから、舌の上に転がる玉を掌に乗せた。
てらりと月明かりを鈍くも反射させる玉は最早本来の色を失っている。まるで中に蟲が這っているかのように淀みは蠢き、いやに冷たい。
彌生はそれを空いている方の手でひとつ撫で、光秀に視線をやった。光秀は眼だけでゆるりと頷く。
「もう終わりにしようね」
瞬間、竜神二人の目が見開かれた。政宗を蝕んでいた元凶を少女は何の躊躇いもなく口に含んだからだ。
「おい彌生!てめえ何やってやがる!」
肩を掴もうと伸ばされた政宗の手は光秀によって叩き落とされた。反射的に小十郎の左手が刀に伸びるが、「小十郎!」と、政宗がそれを制す。
「あなたまた憑かれたいのですか」
「だがよ…っ!」
「死神…これは一体どういう事だ…!?」
柄から手を離したものの、抜刀の構えを崩さずに小十郎が問う。乾いた音を立てる飛電膜を纏いながら鋭い双眸で死神を射抜くも当の本人は何処吹く風。
否、彼は玉を含んだ少女から目を離せずにいた。
口に手を充てた彌生の額には汗が滲み、瞬く間に滴り落ちる程の汗が流れている。顔色は白く、唇の色はみるみるうちに青く変色していく。彌生の身に尋常ではない事が起こっているのは誰の目にも明らかだった。
震える彌生の背中にうっすらと黒いもやが滲む。じわりじわりと大きくなっていくそれは、彌生の背を突き破って這い出してくるかのようで、言い様のない嫌悪感が部屋に充満していくのを皆が感じた。
彌生を覆う程に大きくなったもやは、揺らぎ上の方に集まっていく。
暗い。これが念の深さか。
睨めつけていた政宗の眼が大きく見開かれた。
少しずつ少しずつ形を変えるそれは、次第に歪な人間の影のように象られていく。長い髪から突き出す二本の角は竜神特有のもの。
しかし、表皮は朧気で、息を吹き掛けただけで霧散してしまいそうだ。
本来目玉がある所には何も無く、二つの昏い窪みは只ぼんやりと前に向けられているだけ。顔の造形など一切無い。それでもこの姿が分からない筈もなかった。
ちゃき、と硬質な音が光秀の耳に届いた。音の先を見やれば、顔色を無くした政宗が瞬きもせずに影を見ている。その手の先は刀に掛けられていた。
「竜神、落ち着きなさい」
「俺はいつでも冷静だ」
「では場を弁えなさい。死神の仕事を取らないでいただきましょう。まあ、私も魂狩りしか行った事ありませんがね」
それに、子が親の念切りなんてするものではないですよ。
口の中でそう付け足すと、光秀は掌にあった柄に力を込め、白刃をすらりと右から左へと引いた。
何の抵抗も無く引かれた刃。魂と体を繋ぐ糸はもう少し強度がある為、少し肩透かしを食らってしまった、というのが正直な感想。
念と魂では質が違うか、と分析し、否と察す。
何の抵抗も無かったのではない。何の抵抗もしなかったのだ。
どす黒かった影は少しずつ薄まり、まるで空気に溶けていくように、最後は霧散していった。
瞬きも忘れ、政宗は何も残っていない空虚を見る。左目が厭に熱かった。