神籬の森






耳を近付けなければ聞き取れない程、微かな寝息を立てる彌生。死んでいるのではないかと時折ひやりと背筋が冷えるが、僅かにも上下する上掛けを確認して胸を撫で下ろすというのを何度繰り返した事か。

白い額に掛かる髪を長い指がそっと払う。眉根を寄せ、苦々しげな表情を浮かべた佐助は、小さく少女の名を呼んだ。

彌生と水鏡越しでの逢瀬を交わした後、言い知れぬ不安を抱いた佐助は謙信に事の顛末を話した。


「たまをおろすひもろぎ、たまをたちきるしにがみ。しゅ、だけをたちきることもできるでしょう。…しかし、あのひもろぎは、たしゃがきずつくのをひどくいとう」


口の中で舌打ちする。
そうだ。あの子の事は誰より自分が理解している。己が傷付いたとしても相手を優先させてしまう子なのだ。

あの時。もしあの時彌生を強く止めていれば。己がするから大人しく待っていろと言えば。
死神が直接、呪を断ち切るのだと思った。確かに被呪者の負担は大きいがそちらの方が手間もなく、竜神だってそれくらいの覚悟はあるだろうと。

しかし、傍にいたのは彌生だ。更に呪者は竜神の母親だと言う。子の中に蠢く母の念を断ち切るなどという方法を取らせる訳がない。

己の考えが甘かった。何処をどう見たって己の詰めの甘さが彌生に余計な負担を掛けさせてしまった。

握り締めた拳からは血管が浮かび指先から血の気が失せている。だが、全ての感覚はぐらぐらと煮え滾る自責の念に打ち消されていた。

ふわ、と拳に白い手が重ねられる。驚いてその先を辿れば彌生の布団から伸びていた。


「彌生…」

「…手が痛そう…だよ」

「…俺…怒ってんだぞ」

「……うん…佐助怒るだろうなあって…思ってたから」


ふんにゃりと相好を崩す彌生。幼い頃から、安心した時に俺だけに見せるその顔が。

胸がいっぱいになり息が詰まる。身体中の熱という熱が顔面に集まってくる感覚。


「佐助ぇ…ごめんねえ…泣かないで」

「…だっ、誰のせいだ、と…」

「私のせいだよね…ごめんね…」


ばか、ばかやろう、ごめん、ごめん彌生、ごめん。目が覚めてよかった、生きててよかった、ごめん本当ごめん。

悪態をついたかと思えば謝りだす佐助に、力が入らないながらも彌生が目を開く。どうして佐助が謝るんだ。心配をかけたのは私の方ではないか。


「なんっ、なんっ、で、さすっ、け、が、謝る…ふぇ…」

「だっ、俺っ、彌生のこと、まもれ、…っ」

「わたっ、わたしが勝手にやった、んだ、よぅう」

「……いい加減にしないか!」


ふぇえ、ふぇえと二つの泣き声が満ちる部屋にピリリとした声が空気を両断する。


「かすが…」

「お前まで泣いてどうするというんだ全く…。…彌生、目はどうだ」

「目…?…あれ…?ちゃんとある…見える…」

「感謝しろ。謙信様がわざわざ出向いて治療して下さったんだ」

「…正確に言うとお前の目玉を返しただけなんだけどな」

「…政宗」


かすがに続いて入ってきた姿に目をやる。眼帯の無い右目は閉じられていた。
大股で彌生の布団までやってきて腰を下ろす。粗い動作に見えたが物音は最小限しかせず、やはり高貴な人なのだなと妙に的外れな事を考えてしまった。


「俺の代わりにお前へ呪を受けさせるなんて情けない真似するか」


予想外の展開過ぎて少しびびったんだぞ。
苦い笑みを浮かべながら緩く握った拳の背で、こつりと彌生の頭を叩く。
あいた、と溢す彌生に、これに懲りたら二度とこんな真似すんじゃねえと釘を刺す。


「だって…」

「だってもクソもねえ」

「はい…」

「でも…助かった」


呪の姿を見た瞬間、反射的に刀の柄に手は伸びていたものの、抜いていたかどうか分からない。顔も分からぬおぞましい存在であるのに。虚は、幼き日に見た母の姿だった。そう、捉えてしまったのだ。


「情けねえ…」


握られた拳に青筋が浮かぶ。俯く竜神を前に彌生は小さく小さく呟いた。


「お母さんはね、もう終わらせたかったんだ」


政宗の眼球を取り込んだと同時に流れ込んできた思念。愛する人の貌を受け継いだ息子への嫉妬と憎悪。

そして、それに勝るとも劣らない、


「政宗への想いが、そこにあったよ」


顔を上げた政宗に彌生はそっと微笑んだ。


「政宗をずっと護ってたのはお母さんから受け継いだ竜神の力だもの」


純血たる竜神の呪が死神の鎌一振りで断ち切れる筈はない。彌生と光秀はそう考えていた。どの程度のものかは分からずとも困難を極めるであろう事は誰もが予測出来る事であった。

しかし、結果は皆の予想を裏切った。
唯一、呪に刃を向けた死神は言う。

「酷く切り心地が悪かった」と。

死を抵抗し、生に執着する魂を捩じ伏せて切り取るのが楽しいのに、あの様に受身を取られれば手応えもなくむしろ気持ちが悪い、と。

些か歪んだ感想ではあるが、相も変わらず薄い笑みを浮かべてふらふらと死神は去っていった。


彌生は、お礼も何も言えなかったな、と少し心残りを抱きながらも直ぐに頭を切り替える。またどうせ忘れた頃にふらりとやって来るだろう。季節を忘れた蝶の様に。



政宗は何も付けていない右目に触れた。そこには薄い瞼越しに感じる、歪な、本来の役目をとうに果たさなくなったものが鎮座している。

触れる度、幼い頃の恐怖と哀しみと、痛み、そして理不尽な憎しみに苛まれてきた。

まだ全く何も感じなくなった訳ではない。だが、それらは随分薄れてむしろ温かさすら感じるのだ。

目頭の奥が熱い。

滲んだ視界の先にいる神籬が、頑張ったねえと、ふんわり笑う。

小さな小さな感謝の言葉と、右頬にそっと流れた一筋の涙は二人分の重さがあった。










の咆哮

- 完 -







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