雲の上のひと
 ──雲の上のひと。

 わたしから見た彼を言い表わすのなら、そう。
 見上げるほどに高い身長だけでなく、彼の存在そのものが、同じクラスメイトだという事実すらも無に等しいくらい。わたしからしたら次元が違うのだ。きっと日直や係で用事がない限り、一生話すこともなければ向こうもこちらのことを認識すらしないと思う。自分の名前だって知ってるのかさえわからない。

 陽射しが心地よい午後、机にうつ伏せになる黒髪がきらきらと煌めくのを気届けてから、一番後ろに着席した。本日最後の授業は英語。

「これからテストを返すぞー、呼ばれたら来い」

 ああそうだ、この間の答案が返ってくるテスト返しだった。今回は手応えがあったな、とわたしは先生から名前が呼ばれてから受け取りに行った。
 わ、やった。さすがに満点は逃したものの、高得点を取れたと思う。点数を見つめながら席へ戻る。その途中、ちらっと雲の上のひとを一瞥すれば、眠そうに目を擦りながら終わりに名前が呼ばれるのをちゃんと待っていた。

 ──ずっと寝てると思ったら意外に真面目なところあるんだ。

 出席番号は二十二番、わたしの少し後ろ。
 一方的にそんなことを知っていて気持ち悪いな自分、と思いつつ、同じクラスの人のことくらい知ってたっておかしくないよねと妙な言い訳を重ねた。

「次、流川ー」

 先生に呼ばれて立ち上がると、頭が天井に付くんじゃないかってくらいに大きくてその背中をまじまじと眺めてしまった。テストを持って、端正な顔立ちがこっちに向かってくる。わたしと同じ列だった、と慌てて視線を逸らした。見惚れてしまって馬鹿みたいに一人で顔を俯かせる。答案用紙に意識を向けた。英語の点数が良かったことで上機嫌のわたしは意気揚々とノートを開いた。

「静かにしろー、今回のテストで上位三名を発表する」

 あっそうだった。この先生はテスト返しのあとに上位三名を発表する決まりがあった。さっそく一人目が読み上げられて、みんなが拍手する。わたしも手を打ちながら、どうだろう、でもミスはあったしなあ、と期待と共に緊張していると

「二番目、みょうじー」

 と呼ばれた。ハッとして顔をあげればみんながこっちを向いていて気恥ずかしくなった。やっぱり結果が伴うと嬉しい。でも流川くんはきっと興味なさげなんだろうなって、こんな時にでも気にしちゃう自分が嫌だ。雑草みたいな自分だけれど、今だけは唯一注目されている瞬間だ。

 パチパチと拍手されるこの音の中にも彼が手を打ってくれていたら嬉しいなあ、なんて思ったり思わなかったり。思春期ってほんと厄介で余計な邪念を生むなあと自分に嫌気が差した。
 その後にもう一人名前が挙げられると、ようやく普通の授業に入った。

 高校英語は一気に難しくなっていくから頑張らなきゃと己を鼓舞しつつ、板書にも励んだ。数十分経って、終わりのチャイムが鳴る。キンコンカンコンと一緒に「ここまで、各自復習するように」と言って先生が教室を出て行った。

 あ、今日はわたしが日直だった。
 机の上を片付けたら、黒板を消しに前に行く。上の方までチョークで書かれていて届かない。平均より少し低いわたしは爪先立ちで背伸びをしながら右へ横移動した。直後、右隣にドン! と大きい人にぶつかってしまった。

「あっすみません!」慌てて頭を下げると「む、」という聞こえるか聞こえないかの返事が。
 聴き覚えがあるような、いや初めて聞くような。下げていた顔を上げると、黒板消しを持った、あの──。

「る、流川くん、え、」

 あ、だの、う、だの訳わからない鳴き声が出た。
 今日はわたしと日直じゃないのに、なぜか黒板消しを持っていた。

「……上、消しといた」

 右上を見れば、白チョークがすっかり綺麗に消されていた。わたしの届かない部分を、あの流川くんが消してくれたのだ。あの、流川くんが。バスケット以外、休み時間で居眠りしているはずの流川くんが? なんで? 脳内のハテナが止まらない。

「あっ、ありがとう、ございます」

 取ってつけたように御礼を告げると、流川くんは「なんで敬語」って無表情で返した。

 恥ずかしい、恥ずかしすぎて頭のてっぺんから湯気が出てきそう。あわあわと、「えっと、そうだよね、ありがとう」と感謝を言い直す始末。穴があったら入りたかった。

「別に」

 ただ一言、大したことないとでも言った流川くんは先ほどの英語テストの答案用紙を差し出して続けた。

「これ、よくわかんねーんだけど」

 指差された箇所には不正解のレ点がついている。
 どうしてこうなるかを知りたいということなのだろう。「これはね、」と教えてあげることにした。

「ええっと、助動詞の後だから原型が先でその後にこれがくるんだよ」
「ナルホド」

 流川くんには珍しく、僅かに眉根を寄せた。バスケットではあんなにヒーローでも、英文法は難しいらしい。まだ高校一年だし普通なことかと思ったら、遥か遠く雲の上にいた人がなんだか身近に感じられて、流川くんが同じ人間に思えた。

 次の設問で「これは」と聞かれて「えっとね」と返すこの答え合わせが、わたしたちにとっては初めての会話だったと思う。

「他に質問はある?」

 流川くんを前にして慣れてきたところで、問いかけてみた。もうすべての疑問には答えられたと思うけれど、どうだろう。

「……もっと英語、教えてくんね。みょうじ」

 かくんと軽く首を垂らした流川くんに、落ち着いたはずのわたしはまたパニックになって。

「えっなんで、頭あげて、ていうかわたしの名前知ってたの」

 いろんな疑問が押し寄せて、愚直にも思ったことままを口にしてしまった。

「二番だったろ、さっき」

 名前を知っていたことも、わたしに頼むことも一瞬で解決した。頼む先が一番の人じゃないのは気難しそうな真面目くんだからかもしれない。一人でテンパって、なんてわたしは情けないのだろう。いい加減呆れられてしまいそうだ。

「あ、うん」と俯き加減で答えると「オネガイシマス」と言い慣れないような片言で返ってきた。
 それにポカンとして瞬きを繰り返していると、

「……部活が終わったら教室に寄る」

 とだけ言い残して行ってしまった。
 まって、確かに頷いたけれど、あれは二番に対しての返事で。英語を教えることに関してはまだ承諾していないのですが。

 ──え、バスケが終わるまで教室で待ってろってこと? 

 意思疎通ができていないまま、わたしは雲の上にいたはずの彼の背中を見つめていた。


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