急いで上下適当な服へと着替えてから、薄く化粧を乗せていく。
せっかくお風呂へ入って落とした肌に、扇風機の熱風を感じながらパタパタと粉をはたいた。どうせ汗でまた落ちる、分かってはいるが訪客に素っぴん対応だけは社会人としての矜持、いや異性としての意識が妙に許せなかった。相手が謎の訪問者とは言え、正直ただの自己満足に近い。
最後にお団子にしていた髪をバサッと下ろして櫛で軽くとかした。ついた癖は仕方ない。そこはもう諦める。

心では全力疾走していたものの、結局十数分はかかってしまった。
寝泊りしている和室から出て居間へ小走りに向かうと、何やら響いてくる独り言。男のヒトの、彼の声は怪しさ満点だった。

「──神隠し、スか。神という点においてはあながち間違ってないんスけど、アタシは見ての通りヒトの形状ですんで狐サンとは縁遠いっスね」

そう言ってから、はは、と笑みを零していた。
独り言、と言い切るには明らかに誰かと会話をしているような。自身を『神』と自称する内容にも、やはり薄気味悪さを覚えた。
彼は祖母の骨壺を前に言葉を発している。会話であるのなら相手は、ひょっとして、──。ふと浮かんだ有り得ない空想、そんなことある訳ないのに。

障子に身を潜め、じっと聞いているとまた声が響く。

「とは言っても、そういった偶像崇拝されるような神でもないんで…」

自称『神』は偶像崇拝以外の立場であるらしい。
だが自分自身、元々熱心な仏教徒でも神道信者でもないため、崇め奉られぬ神の部類を他に知らない。もっと教養を得ていたらこの国の神々について知り得ていたのだろうか。などと雑念が横入りするも、いや、今は神の類いに思案を巡らしている場合ではないな、と状況把握に専念しようと努めた。

急な訪問者、理解不能な独り言。その根底にある祖母の喪失。重なる歪んだ現実直視に逃避したくなる。こんがらがって絡み合う心情を押さえ込むように、いづみは胸元でぎゅっと拳を握り締めていた。

すると、ええっと、と彼が悩ましげに声を落とす。

「すいません。お線香、勝手に上げさせてもらいました」

息を潜め廊下で佇んでいたが、気づいていたらしい。
いきなり求めてもいない謝罪を受けたが、どうやらそれは自分に宛てたようだった。
線香くらい上げても構わない。寧ろありがたいことだし、それを気にするのは祖母くらいだろう。対するいづみは「いえ」と厭わない素振りで居間へ入った。特段人見知りな性格でもないのに、ほんの少しだけ緊張した。







居間に残る小さな円卓を挟んで対峙する。
冷たい緑茶を出したものの、適切な会話が見当たらず。無音が二人の間を支配する。

「まあまあ、そんな緊張なさらずに」

危うく、はあ、と落としそうな声を呑み込む。全くどちらが家の者か分からなくなりそうだ。こんな軽いヒトだったっけ? と抱いた疑念は冷茶と一緒に喉奥へと流し込んだ。

「いや緊張はしてないんですけど…」

神と自称する相手を訝しんでいるだけで、とまでは言わないでおく。
しかし元来、好奇心は旺盛だ。黙ってああでもないこうでもないと考えているのは性に合わない。いづみは先に切り出すことにした。

「あなたは、その、時空を行き来する、」
「神かって?」

神という非現実的な響き。自らの口で発することを控えたまま、コクンとそれに首肯いた。

「本当にその類のひとなんですか」
「貴女はさっきの会話を信じる、と?」
「……会話ってことは、やっぱり居たんですねもう一人」

こちらの返しに彼は砕けた声で笑った。

「いやぁ。あなたは賢いっスね、いづみサン。昔と変わらない」

突然に下の名を呼ばれてギクリとしたが、生活の中で下の名を呼ばれる事がめっきり減った所為もあってか、妙な違和感が残る。この人と会った回数こそ少ないものの、知らない相手ではない。ああ、十二才の出来事だけはぼやぼやと忘れ去られていたけれど。

「昔と変わらないのはあなただと思いますけど」

ただ十年以上のブランクがある相手ではほぼ初対面も同然で。建前を貼り付けた精一杯の切り返しだった。

「ですがまあ、いつの間にかずいぶんと大人になっちゃって」
「そりゃ私は人間ですし成長しますし、もう成人越えてますから…」

この際。彼を神という分類か時空に関する人物の前提で話を進めていく。
こちらの質問を巧みにはぐらかされている気もするが、あんな出来事に加えて変化のない容姿。どう考えても現実離れしているのだ。

「まあ見た目や背丈もそうなんですけどね」
「『も』ってなんですか」
「はは、鋭い」

ぱたぱた、彼は手持の扇子で仰ぎ始めた。扇風機の風にも当たって涼しげに見える。が、この部屋は湿度が高く、とにかく暑い。客を迎えるには相応しくない室温に心苦しくも感じる。

次第にお馴染みとなりつつあるこの人のおだてに乗らずに黙っていると、彼が続けた。

「ひょっとして。アタシの名前、憶えているのに認識すること避けてます?」

それとも本当に忘れちゃいました? と、とぼけたように首を傾げて。
この男。読心術というか、空気以外のものを読みすぎて逆に波長が合っていない気がする。ほぼ初対面と変わりないのだから敢えてそうしていたのに、これでは今後名を呼ばない訳にはいかない。

「そんな。避けてる訳じゃないですよ、あまりに昔のことで確信がないだけで」
「先程の会話を聞いていたのに?」
「名乗ったのならそこは聞いてないですね」
「…なるほど、お孫さんは思った以上に手強い」

また笑った。今度はさっきよりも嬉しそう。

「言ったじゃないですか、今のところ私の中では『時空のおじさん』なんです」
「そんなぁ、アタシはまだまだ若いっスよ? だいたい、その時空のなんちゃらっていうのは一体どういう入れ知恵なんスか」

問われたいづみはポケットに入れていたスマホを取り出し、すぐさまネットで検索をかける。先ほど幼馴染みと居た部屋よりは電波が良いようで、案外すぐ繋がった。
これです、と言って卓上に置くと彼は、どれどれ、と身を乗り出す。そうして暫く黙って読んだのち、「へぇ、興味深いっスねぇ」と零して再び画面を眺めた。

スマホを黙読し考え込んでいる間、心に浮かぶ絵空事。
もしも。彼がかの時空のおじさんで、今のこの現状でさえも、もしかしたら別の場所で起こっていて、本来の居場所に連れ戻されるのなら。全ては虚構で済まされるのに。
いづみの頭には、ついさっき思い描いた、鬱陶しい利己的な空想が駆け巡っていた。そんなこと、あるはずがないのに。人の死をそんな風に扱っていい訳がないのに。

「……無念っスけど、今回あなたは別の場所に迷い込んだ訳じゃない」

読了後。開口一番がそれだった。
馬鹿げた夢物語を看破するように見透かされて、辱められた気がした。

「あくまであなたの居場所にこちらが足を運んだんです。あなたは移動もなにもしちゃいない」

突き刺さる声。
頭を鈍器で殴られたように目が醒める感覚。
分かってる、分かってるから敢えて言葉にしないでよ。どろどろとした醜い感情が腹の底で渦を巻く。言葉の節々から、現実を見よ、と諭されては、その全てが図星すぎて。この人に何を言い返しても、自分自身を惨めにするだけだと思わされた。

「ですから、」
「──はい、祖母は亡くなりました。ひぐらしが鳴く夏の終わりのことです、老衰でした」

ちゃんと分かってますから、とピシャリと告げて、幼稚な愚考をなかったことにした。
「そうですか、」と返された彼の声。その表情を確認することなく、荒れかけた心を鎮める。一瞬の感情任せに客人へ失礼なことを、と先程より頭の冷えたいづみは、この不穏な空気を誤魔化すように「ああ、そうだ」と顔を上げた。

「それで、どうして来られたんですか?」

こちらの問いに彼はキョトンと目を丸くした。

「あなたが呼んだんでしょう?」
「呼んでないです」

さっきも呼んだなどと言われたな。いづみはまた彼のお遊びに付き合わされたと呆れながら即答した。

「いーえ、呼びましたよ。だからアタシがここにいるんです」
「あのー、もっとわかりやすく説明してくれません?」
「ほらアレっすよ、アレ。『ドン・観音寺』サンの」
「…ドン・観音寺…」

ハッとしながら、今日の出来事を思い返した。
あの謎の男が付された装置。第一印象が強烈すぎて、鮮明に焼きついていた。丸いサングラスに、歪な帽子、そこから覗くドレッドヘア。確かにボタンを押した、しかも二回も。妙な音声が流れてきたが、まさか、あれだけで──。

「あれは、ただの玩具で、しかもあんな気持ちの悪い、」
「気持ち悪いなんてとんでもない。彼、アタシらの処では大人気なんスよ? 喜んでいただけませんでしたかね」
「喜ぶもなにも、あれはちょっと意味が」
「いやあ、アタシもびっくりしたんスよー。幼い頃のいづみに渡した玩具、小六のいづみサンに聞いたら失くしたって言っていたものですから」
「えっ」

言われて十二才の最後の想い出がまた、ふと蘇る。

『あのとき別れ際に渡したおもちゃはどうしました?』
『それって、六才のときにもらったやつ?』
『ええ、ちょっとした絵が描いてあったかと』

失くしてしまったことが辛くて申し訳なくて。ごめんなさい、と頭を下げたことは、幼いながらも心残りのある瞬間だった。これまですっかり記憶から抜け落ちていたけれど、一度思い出すとどんどん溢れてくる。それが彼から貰った唯一の形ある物だと知ると、灯火に似た温かさがじんと心に滲む。

「……あの玩具が、あの時の…」

失くしたものが戻ってきた。しかもそれは唯一無二の替えのきかないもの。
予期せぬ喜びに瞠目すると、彼は目を細めながら微笑んだ。久しぶりに対面する、儚げで柔らかな笑み。ああそうだった、彼はよくこんな表情を魅せていた。
とくん、と優しく響く鼓動に、あの夏の影を重ねていた。

「どうです、言ったとおり、ちょっとした絵が描いてあったでしょ?」
「いや、全然ちょっとしたじゃないです、絵柄というか顔が濃いです」

おかしいっスねぇ、と絵心の欠片もなさそうな男は顎に指をあてる。
家族でも幼馴染みでもない、更には人間でもないひとに、悄げた気持ちが和らいで。自然に、くす、と笑みが溢れていた。

すると、彼は仰いでいた扇子をパシリと閉じ、コト。卓上へ置く。

「……では改めまして。あたしは浦原喜助と言います。別の処で駄菓子屋の店主と死神をしてます。以後、お見知り置きを」

ゆっくりと、会釈をするように軽く首を垂らした。

──まって。しにがみ、今、このひと死神って……。

聞き慣れない単語が脳内で反響する。しかし彼なりの自己紹介が思いの外、真っ直ぐで、礼節に富んでいて、疑っちゃいけない気がして。自分も同じように返していた。

「あ、瀬戸いづみ、です。今は、えっと…都内で会社勤めしてます」


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