初めての花火体験を終え、橋の下を歩いていくと山道付近へ差し掛かる。
すると喜助はバケツを一旦地面へ置いて、いづみを呼んだ。それに小首を傾げながら、なに? と問うと山林の茂みへと喜助は踏み入れていく。

「まって、きすけさん。どこ行くの」

深い暗闇に怖くなって堪らず声をかけた。
喜助は人差し指を唇前で立て、しぃ、と合図する。気乗りしないまま仕方なくそれに従って。彼の羽織りの裾を掴んで歩いていくと、彼はいづみの目の前に優しく重ねられた両手を差し出した。

「いづみ、見てごらん」

そっと大きな両手が開かれ、恐る恐る中を覗くとぱあっと輝くような明かりが燈っていた。ゆらゆらと手のひらの上で動いてはそのお尻を振っている。
それが何かいづみにはわかったけれど、初めて見るもので確信が持てなくて。悩んだように喜助の顔を見つめた。

「これは蛍だよ」蓋をしていた上の手を取ると、明かりがうろつき回ってからふわあ、と飛び立っていく。

「あ、いっちゃった…」
「返してあげないとね」

好奇心の強いいづみも真似して自ずと手を伸ばしてみた。
苦手な虫だとわかっているのに、動く光りを体験してみたくて。しかしどうやるのだろうと掴みあぐねていたら、喜助が手伝っていづみの手首を触り誘導する。その熱にまた妙な恥じらいを覚えたが、今はそれより珍しいこの出来事を楽しみたかった。

「ほたる、はいった! きすけさん、今あけるから見てて!」

自慢げに喜助へ告げると彼が笑う。

「はい、見てますよ」

ゆっくりと手を開けて、ぼんやりと放たれる黄金色の明かり。真っ暗闇な山林の中、唯一の光りがふるふると揺れ動いていた。二人で蛍を覗き込む。苦手な虫という事も忘れていづみは見惚れていた。「きれいだね」「そうだね」二人だけの空間で共有される会話。同意を得るように喜助を見上げれば、下から照らされる彼の顔がくっきりと窺えてそれもまた美しかった。思い返せば、さっきの花火の時もあった。火花越し、陰陽がなぞるように浮き上がる姿は、男のヒトなのに綺麗だな、と。

暫く点滅する様子を眺めていたけれど「捕まえたら返してあげるんだ」と教えられ、終わってしまうこの日と重ねて寂しく思いつつも蛍を逃した。
ばいばい、と飛んでいく蛍を見送ると、向かった森の先には多くの燈火が幻想的にぴかぴかと輝く。「うわあ、いっぱい」思わず感嘆の声が無意識に零れ出た。
同じように横に立つ喜助から「蛍が光るのは会話したり求婚の合図らしいっスよ」とまた新しいことを学んで、ひとつ賢くなった気がした。

「きゅうこん、って奥さんをさがしてるってこと?」
「そう、番いを探してるってことっスねぇ」
「へえー、かわいいなあ」

一方で、こんな時にまた可笑しな事が頭に浮かぶ。

(…きすけさんも…いるのかな、)

さっき口に出した、はぐらかされた質問。ハッとしたいづみはぶんぶんと頭を振って何を考えてるんだと一気に恥ずかしくなった。

「どうかしました?」
「あ、ううん、なんでもない!」

すると喜助は無数の螢火を眺めながら、申し訳なさそうに声を紡ぐ。

「しかし早いものでもう夜っス。いづみサンの元居た場所へ見送る分には時間の問題はないんですが……あなたの身体はだいぶお疲れですから、お別れしなければなりません」
「いづみ、まだ遊べるよ、つかれてないよ」
「そうは言ってもね、帰さなければならないんスよ」

分かってるでしょ、と諭されて、涙が出てきそうだった。──でも泣かなかった、だってもう六才じゃないから。別れが来る事はわかっていたけれど、このヒトとは次いつ逢えるかわからない。もしかしたら三度目はないかもしれない。

「きすけさん、また会える? 来て遊んでくれる?」

目に薄ら涙を溜めていたけれど、辺りは暗くて彼には見えなかったと思う。

「残念ながら、ボクから会いに来ることはもう無いっス、すいません」
「…そうなんだ…」
「ですが以前みたいにお菓子をあげなくても、あなたは物分かりが良い子になった、偉いっスね」
「だって中学生になるもん」
「以前と言えば。あのとき別れ際に渡したおもちゃはどうしました?」
「それって、六才のときにもらったやつ?」
「ええ、ちょっとした絵が描いてあったかと」
「…えっと、」

初めて会った六才時の別れ際、泣き止まない自分にたくさんのお菓子をくれた事は憶えている。だがその中に混じっていた玩具は正直記憶になかった。多分どっかにいってしまったか、もう遊び尽くして捨ててしまったか。今思えば唯一の貰ったものだったのに、それがどういったものかちっとも思い出せないなんて。心苦しくて、申し訳なくて。

「……ごめんなさい、前になくしちゃった」いづみは俯いた。

「いいんスよ、大したモノじゃなかったんで。ないならないままで問題ないっスから」

励ますように微笑んで、頭をぐしゃりと撫でてくれた。触れた大きな手のひらに自らの指を触れ返して、彼はここにいたことを確かめるようにその手を握る。忘れることのない夏の情景と共に、彼はいたのだ、と。

「じゃ、そろそろ帰りましょうか」

喜助は置いておいたバケツを取りに戻ってから、いづみの前に佇む。
心の底では認めたくなくて無言を返したけれど、彼に掴まって、山間部の出逢い場所まで飛んでいく。結局、このヒトが何者なのか、最後までわからなかった。でもそんな事はどうでも良いのかもしれない。寂しいばかりの自分に楽しみ方をたくさん示してくれたひとだから。

そうして大樹のしめ縄まで移動すると、「もう一回移動するよ」といづみに心の準備を促す。次の一回がほんとうに最後なのだと、嫌々ながらぎゅうっと強く抱きついて。底抜けの安心感へ飛び込むように彼の和服へ顔を埋めた。おばあちゃんちに似たような香りとは別に、ほろ苦い何かが鼻先と心をくすぐる。これはきっと彼自身の香りなんだろうなと頬がにやけた。

「はい、着いたっス」その声で暗闇から目蓋を上げると、目に刺さる日光が。昼夜逆転したように眩しかった。体は一日遊んだあとで疲弊し切っているのに、寝ずに起きていた感覚で不思議だった。

「こっちはもう朝?」
「あー、いえ。元いた日時へ戻ってきただけっス。いづみサンと出逢った時間が記録されてるんで」
「ふうん。そうなんだ、ふしぎ」

見上げれば、夜と違って彼の顔がはっきりと眼に映る。

「最後にっスね、いづみサンにはちょっと見ていてもらいたいものがあって」

言って、彼が懐から取り出したものは小さな装置。移動するときに使ったものと似て非なる、親指でボタンを押す小型の機械だった。これが何のためかは不明だが喜助の言うことだから、とすんなりと受け入れた。

「見てればいいの?」
「はい、目を開いてさえもらえれば大丈夫っス」

彼はもう一度、大丈夫、と言い聞かせるように言ってから続けた。

「……たくさん花火をしたことや蛍を見たこと、これらは変わりません。あなたの大切な想い出はそのまま。入れ替わるのは相手だけ、僕じゃない誰かに代わり、それが新しい記憶となる」

いづみは困ったように口を挟んだ。

「なに言ってるのか、よく分からないんだけど」
「直に分かります、今回は僕の都合で付き合わせてしまってすみませんでした」
「え、なんできすけさんが、あやまってるの?」

訳がわからない単語の羅列にいづみが問うと、喜助は寂しそうに笑って。

「小さいいづみがあんまり可愛らしかったんで、」

──どきり、彼の言葉に心臓が跳ね上がった。
その後もずっと大きい音を立てて、頭のてっぺんまで打つ脈が聴こえる。
高鳴る鼓動は、なかなか止んでくれなくて。今まで知らなかった想いが胸の真ん中で弾けていく。話をしていた時から花火をしてた時も、蛍を見た時も。変に気恥ずかしくなって、胸奥がむず痒く感じたことがたくさんあった。いづみはこれがなにか理解できぬまま別れ際まで放っておいてきたけれど。体内で響き渡る心音と初めて抱いた感情は、このヒトだけへの特別なものだと知り、──。

(あ、きっとこれが、──)

装置越しに笑む喜助。その笑みに心臓がぎゅっと苦しくなって、ほんとうはもっと眺めていたくて。切ないのに温かい。これが意味することを知ると同時に、いづみの心は彼へ落ちていった。

「さよなら、いづみ。迷わずに帰るんだよ」

スイッチが押され、ぼわん、と上がる白煙。
いづみはただぼんやりと見つめていた。見ているだけで、頭にあった今日一日の出来事が、パズルのようにばらけて、再び戻ってきた感覚。入れ替わったような、それでいて正された記憶。すっきりしたはずなのに気持ち悪い心地だった。

次第に雲がかった白濁の視界が開けて、森林の木漏れ日と蝉時雨がいづみに降り注ぐ。

「……あれ? わたし、なんでこんな所にいるんだっけ」

特別な想いは誰かへ落ちた、はずだった。
が、直前に抱いていたはずの感情は一瞬にして消え去り。──目の前からも、頭からも。

「うーん。…なんか今、すっごく嬉しいことがあったのに、思い出せない」

辺りを見回して、何もなかったことに小首を傾げ考えたけれど。結局何が嬉しかったのか分からず終いだった。
更には、まだ昼過ぎだというのにどっと押し寄せる疲労感に倦怠感。調子が優れないようだから今日は帰って昼寝でもしよう、といづみは麦わら帽子を押さえながら山を下りて行った。


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