AM2:00の続き



ワンナイト・ワンラブ


「……ない」

 骸は自宅の扉の鍵穴を見つめながら念じた。
 開け!
 当たり前だがそんな事をして扉が開く訳もなく、骸は盛大に溜息を吐いた。

 今日は大学の友人と飲みに出掛けた。予想外に遅い時間まで飲むことになり、それでも何とか終電には間に合ってやっと休めると思いながら自宅の扉の前に立った所で気がついた。
 鍵が無い。
 確かに今朝鍵を閉めてきた筈だ。ならば何故鍵が無いのか。思考を巡らせていると、ある一つの結論に至った。大学に忘れてきたのだ。
 理由が分かった所でどうする事も出来ないのが現実だ。既に終電も出てしまっているし、取りに行った所で肝心の大学が開いているかも謎である。

 これは非常にまずい。一晩をここで過ごすのだけは御免だ。かと言って思い付く限りでは近所に友人は居ない。
 くしゃっと自身の髪をかき上げ、眉間にシワを寄せながらふと、隣の扉に目をやった。
 表札に名前は無いが、そこには少し前に引っ越してきた大変近所迷惑な男が住んでいる。毎日のように人の安眠を妨害した上に、初対面にも関わらず自分を見て「タイプかもしれない」と言い放った危険人物だ。

 一度注意したお陰で夜中に爆音が聞こえてくる事は無くなり、穏やかな睡眠を取る事が出来るようになったはいいが、今度は隣人と極力会わないようにする為に全力を尽くす羽目になってしまった訳だ。なんたって自分の身がかかっているのだから。
 けれどその努力も虚しく、何故か隣人とは顔を合わせる事が多くなった。今までは一度だって顔を合わせた事などなかったのに。ゴミを出しに行く時、大学に行く時、コンビニに行く時、外出をする際にはかなりの確率で遭遇してしまう。その度に素早く逃げる為、いまだにその男の名前は知らない。

 この男に頼るくらいなら、ここで寝た方がマシだ。

 そう思える程には、隣人の事が苦手だった。骸は隣の家のドアから目をそらし、自分の家の扉を背にしてズルズルとしゃがみこんだ。今の季節、外で一晩を過ごすのは寒すぎる。場合によっては命の危機だ。コンクリートの床は痛いし、どうしたものか。
 そんな事を思いながら目を閉じた。

「骸クン……?」

 自信の無さそうな声と共に近くに気配を感じ、とっさに目を開ける。そこには非常識な隣人がコンビニの袋をぶら下げて立っていた。

「……こんばんは」
「こんばんは。何してるの? こんな所で」
「外の風に当たりたくて」
「ベランダでいいじゃん。そこ床痛いでしょ。てか寒くない?」
「いえ、全く問題ありません」
「もう遅いし、早く入った方がいいんじゃない? 風邪引くよ」
「お構いなく」

 極力目を見ないようにして簡潔に答えれば、男が小さく溜め息を吐いたのが分かった。溜め息が出そうなのはこっちだ。

「素直じゃないなぁ。鍵が無いならそう言えばいいのに」
「は?」
「鍵、無いんでしょ?」

 ズバリ言い当てられ言い返せない。確かにこんな時間に自宅の扉の前で座り込んでいるのは明らかに不自然だ。外の風に当たりたくなったなんて、もっと他に上手いこと言えなかったのかと自問したくなる。

「僕の部屋に来る? ほら、せっかく隣なんだからさ」

 男の提案はありがたかった。もし普通の隣人だったならその言葉に甘えて一晩お世話になる所だが。如何せん、相手が相手だ。何をされるか気が気ではない。
 外気に触れずに眠る事が出来るというのは大変魅力的ではあるが、自分の身を最優先し、「せっかくですが……」と断ろうとした瞬間、男がそれを遮るようにして口を開いた。

「別に何もしないよ」

 浮かべる笑みは胡散臭さを拭えない。

「君さあ、僕の事ホモか何かと勘違いしてない?」
「……違うんですか?」
「違うよ! 僕はノーマル! まあぶっちゃけ骸クンはタイプだけどね。何もしないから安心してよ」

 探るような視線を向けると男は笑いながら「どうする?」と聞いてきた。夏とは言え床は冷たくて硬い。一晩を過ごすのは出来れば回避したいというのが本音だ。
 若干の不安を残しつつも、骸は重い腰を上げた。

「不本意ではありますが、一晩お世話になります」
「うん、ちょうど酒も買ってきたんだ」

 そう言いながら右手に持っているビニール袋を持ち上げて見せる。缶が数本ぶつかる音がした。
 酒なら今飲んで来たばかりだが。そんな事を考えていると、いつのまにか移動した男が扉を開けて待っていた。

「どーぞ?」

 そうやって微笑む姿に少しだけ頬が熱を持つ。こんなような事が以前にもあった。そう、この男と初めて顔を合わせたあの日だ。
 骸はそこでふと、ある事に気づいた。まだ、名前を聞いていない。第一印象があまりよくなかっただけに今までは極力避けるようにしていた為、名前を聞く機会など無かったのだ。

「あの、」
「ん?」
「名前……何て言うんですか?」

 一瞬だけ驚いたような顔をして、それから薄く微笑んで、男は口を開いた。

「白蘭だよ」

 浮かべる笑みは相変わらず胡散臭いのに、自分とは正反対のきれいな名前を口にする声と、自分を見つめる双眼から目を離せない。

 何だか鼓動まで早くなっていくような気がして、骸はきつく拳を握りしめた。


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